山径…諸感U




海猫
山梨の大雪警報
里山,高尾山の豪雪
真新しい登山靴
2チャンネル 
再,海猫
平成の夜空と人工衛星
同好誌「明峰」
都民の森へ路線バス
jr御徒町駅と周辺のガード
峠の茶屋 力餅
山田洋昭氏・・追悼
新宿発23時55分,,各駅停車があった頃
幼馴染みの百名山



 2013年〜15年, 山径諸感T・・1963〜2012年 




御徒町,元浅草周辺にて
jr高尾=辰野間全線運休,山梨県のほぼ全域が一時的に孤立状態に
高尾山周辺・・小仏峠から南高尾山稜
5代目登山靴
インターネットと雑誌
飛来続く海猫・・御徒町,台東周辺にて
三筋のバルコニーで
ヒマラヤ,鉄の時代の到来
五日市街道,檜原街道
架道橋と高架橋の耐震と改修・・・東京駅100周年,2014,11
5代目峠の茶屋,力餅とスノーシュッド
自宅で
中央東線新宿駅と上野駅
長塩の全山登頂を祝う

      海猫T


     2013年06月上旬に河口湖に入り,毛無山東尾根から十二ケ岳―節刀ケ岳北尾根と御坂主稜を横断し,甲府盆地に向かっていた。
   路線バスが鳥坂隧道を抜けると甲府盆地の南側を遠巻きし,御坂道近くまで廻ってjr石和温泉駅にでている。
   列車が入線する間に駅舎と並ぶ観光協会事務所前で燕の燕返しする姿を見る。又脇奥のトイレの軒下に幾つも燕の巣があった。

     近頃燕を見る機会が少なくなっている。東京では年毎に少なくなる燕,高速道のSAでも余り見られなくなっている。
   今年は我が町の住まい前の路上でも,燕返して急旋回する姿は一度しか確認していなかった。
   お寺が多いせいか営巣も多い筈だが年毎に燕の親子は見られなくなっている。

     それに変わりカラス,土鳩が現れるも,今年はこの処,真近で海猫の鳴き声をよく聞くようなった。
   隣り角のマンション屋上に営巣したらしい。我が家のバルコニーにもスズメなど野鳥は遠のき,白い大きな糞が幾つも落ちていた。
   3週間ほどで網が張られ排除されたが近くのビルに移巣したらしい。我が家は下町,上野池ノ端と隅田川の間に位置している。

     記憶によると一昨年の6月,台東区上野の高いビル,屋上で20〜30の番いが営巣していたのが確認され,又複数の幼鳥も確認されている。
   その時の仲間たちだろうか? 東北地方太平洋沖地震の津波で巣営を失い,その影響が大だと思われている。

     海猫の繁殖形態は卵性, 繁殖地,コロニーを形成し,日本では4〜5月に1回で2,3個の卵を産み,抱卵期日は24〜25日,
   雛は孵化してから約40日で巣立ち,生後3年で成鳥になる。

     辞書によると食性は雑食で魚類,両生類,昆虫等を食べ,他の鳥類,カイツブリやカルカモ,コアジサイ,スズメなどを捕食する可能性も高い。
   この海猫は最近,私の住んでいる周辺の池ノ端,墨田川,太田海岸等に数多く営巣している。

     昔妻と出雲大社に出向いた折,日御碕の西方向100m沖合にある,国の天然記念物「経島(ふみしま)ウミネコ繁殖地」を見聞した。
   ただその時は秋真っ盛りで1羽の海猫も見ることはできなかった。裸の岩肌に囲われ断崖を綴る独島だけを望んでいる。
   毎年11月下旬〜冬に掛け約5千羽の海猫が飛来し,産卵,孵化し,7月頃には経島を離れるという。

     もう7月中旬になる。今だ自宅と旧工場に通う7,8分の中,毎朝都道「春日通り」の路上から海猫の飛翔する姿を見上げるのが日課になっていた。
   正に鴎ではなく,猫の鋭い鳴き声を聞く。今日もそうだ。交差点に立ち,陽が大分昇っているにも係らず,奇声を真近で聞いている。
   そろそろ海猫たちの旅立つ日が近づいているのようだった。
                                                                 2013年07月10日,自宅で


     7月17日18時半のテレビニュースで池ノ端に集まる異常な海猫を報道をしていた。
   上野公園から1〜2km範囲に凄い数の海猫がマンション等の屋上に分散し,営巣している映像が映し出されていた。

     一昨年3月の東日本大震災以来,営巣を失った海猫たちが営巣を求め避難してきたようだ。
   来年も飛来してくる確率は高いと云う。今朝もまだ旅立たず留まり,群をなし頭上高くを旋回していた。
                                                                         7月18日,竹町で


     7月下旬,剱岳北方稜線へ馬場島へ出向く,その間に海猫たちは旅たった。今,テラスにはスズメが集まり,周りでカラスに鳩の鳴き声を聴く。
     翌2014年02月25日・・早くも今年一番の海猫が我が町に再び飛来するが,本隊はまだまだ先のようだ。


      大雪警報



     2014年01月28日,大菩薩連嶺,セイメイバン東尾根から岩殿山に南下し,天神山から桂川に架かる中央道大月橋を見下ろしていた。
   その10日後,2週間続きて関東甲信地方は豪雪で大荒れになる。
   低気圧(8日3時,1002hpa)が発達し,本州南岸を北東進し,東京23区に「大雪警報」が発表され,東京では45年振りの積雪27pを記録した。


     又14日には再び南岸低気圧の影響を受け,「大雪警報」が発表され,甲府の最深積雪は114pを記録する。
   今までの倍以上の積雪で山形を抜き,秋田,新潟に迫る勢いの新記録を樹立している。前橋73p,

     国道20号線大月インター前の国道は完全に雪に埋もれ,中央道から出られず,延長40kmにも及び車数百台が立往生する。
   国道では大月警察のパトカーが遭難,レッカー,除雪車も進めず,自力で逃れる他なかった。・・山梨日日新聞より,東京14時で1002hpa,

     15日17時のテレビニュースでは中央道大月橋外側の上り線が降雪に埋もれ、動けぬ車が列をなし,点々と立往生する姿を偶然見ている。
   ヘリの映像からアップして映し出されていた。丁度花咲山側から見下ろした風景になっていた。深い雪国の風景に変わり映し出されていた。

     列車は運休,道路は高速道を問わず閉鎖され,山梨県全体が孤立した状態になっていた。
   各地区には数え切れないほどの陸の孤島が出現し,都内では檜原村が孤立している。


     丁度今朝は町会の沖縄旅行で出掛ける筈だったが休航で中止。又例会となった鹿沢温泉でのOB親睦会は信越道が動かず中止。
   K先輩からの電話では草津温泉では雪崩が起き,又積雪多く街に帰れず待機とのこと。・・15日20時30分,

     17日,JRは四方津一小淵沢間は終日運転中止,高尾一四方津間は運転の見込み。青梅線は今朝から青梅まで運行,
   中央道は全線通行止,陸自は郡内の国道除雪に入る。

     失礼な話だが東京近郊で雪山を踏めるとはしゃいでいたが,それも先々に延びることになった。
   そして25日積雪1mの高尾山にカンジキを持ち,出掛けることになった。


     2014年02月17日,竹町で


      豪雪の里山,高尾山



     高尾山は東京近郊の里山として,誰もが知っている「明治の森国定公園の山」で, 元来は高尾山薬王院有喜寺,修験道の霊場。
   最近,この山が若者達に注目を集め,一種の人気スポットになり始めていた。
   2007年ミシュランガイドで最高のランクの「三ッ星」の観光に選ばれ,又12年には圏央道の高尾山ICが開通されている。

     それ故ケイブルカーなどを使って,気軽に登れることができるなど? 老若男女を問わず,観光,登山にと訪れる人々が多くなる。
   年間260万人,世界一の登山者?を誘っているそうだ。

     私にとって高尾山とは何だろうか。
   幼い頃,小学校の初めに従兄弟達に連れられ高尾山に登っている。その後,自分の子供達と一緒に,何十年振りかで高尾山に登った。

     又数年前,妻と朝のコーヒーを飲もうと高尾山に出向いたこともある。その時はハイカーの集まる前に山を下りている。
   その後,三頭山笹尾根を末端まで歩き,今はその尾根の周りの膨らみを歩むようなった。

     それから8年近くなる。高尾山一つを取っても,私にとって,年と共に綴ってきた踏み跡が改めて残されているのを知る。
   節目で登ると云えば大袈裟だが1つの区切れで登っていたようだ。


     それが今回は稀に見る豪雪が切っ掛けになり入山した。ラッセルする山が東京近郊の高尾山に生まれていた。雪白き高尾山に出向く。
   関東甲信地方が大雪に見舞われ10日経ち,まだ取付きから下山口まで裸土を踏まず,最後まで雪と戯れ下りてきた。
   それが高尾山。積雪は概ね30から80p,吹き溜りは100p位, 記録的な積雪に見舞われる。

     東京近郊の低山でも信州の裏山を歩んでいるような気さえを起こさせていた。
   雪白さが目に沁み,トレースはまだ薄く,輪カンジキでふくらはぎの深さ,潜れば股まで埋まる。振り返ると凄いラッセル跡だった。
   一時,尾根上にでた所で薄いスノーシュの跡を見ただけで,雪面は踏み跡どころか陰にはシュラカップができていた。

     雪解けは進むも,今でも壺足状態のトレースが続いていた。高尾山へのハイカーの入山はまだまだ積雪多く少ないだろう。
   日中は穏やかな陽気に恵まれ,却って今日の馬鹿陽気にトレースは潰れ,馬力のいる壺足が積雪の深さを物語っていた。

     バランスを崩すと股まで潜る。足を掘り上げるには両手で掘り上げる始末。仰向けに雪面に体を投げ倒し,紺碧の空を仰いだ。
   飛ぶ雪片が陽光を透し煌めき,豪雪と戯れ一人愉しむ。擦れ違うハイカーどころか,下るまでトレースらしきものは見当たらなかった。
   贅沢過ぎる雪山で気は陽々としていた。昼下がりに下山する予定が日没になる。雪塊に奮闘し,又戯れた。スノーシュがあれば又最高だっただろう。


     2014年02月,裏高尾から雪深い武相国境尾根を末端へ



      真新しい登山靴



     初めて山らしい山に登ったのが中学時代,奥武蔵伊豆ケ岳。 チロリアンハットに山バッチがブームに乗る時代だった。
   そして高校になり革製の登山靴を御徒町「片桐」で購入している。国鉄は各地に山岳列車を運行し,第二次登山ブームの全盛期を迎えていた。

     RHCに入部し本格的に山にのめり込む。2年目で山スキーにも活用できる溝付きの皮製登山靴を池袋,「山幸」に発注した。
   四季を問わず中部山岳地帯から北海道まで山々を歩き廻り,正月には富士山から八ケ岳,北アに通うようなっていた。

     尾根径から少しずつ渓流,岩場へと攀じり,雪山から山スキーと,よく共にした山靴だった。ビブラムは2度張り替えている。
   それも独立し仕事に邁進するようなると山とも遠ざかっていた。バブルの時代を過ぎても,仕事に忙しい日々は過ごしていた。

     50代も終わりに近づいた頃,2005年8月に,田中先輩に誘われ立教学院八ヶ岳環境ボランティア清掃ハイクに参加する。
   子供達と八ヶ岳に登ってから20年の歳月が過ぎていた。この清掃ハイクが切っ掛けとなり,再び山に出向かうようなる。
   イゼンの付けられるハンワグ革製の登山靴を御徒町「トラヤスポーツ」で購入, 続いて同期,大川に誘われ会津帝釈山に出向いている。

     どの山行も山に入れば懐かしい山々に囲まれていた。殆ど入ったことのない大菩薩連嶺に奥多摩,丹沢と近郊の山々にも登るようなった。
   クラブのOB仲間達との山行に,幼馴染との山, 山の登り方も多種多彩に変化している。
   単独では登山道から少し離れ,身近な水源林に囲まれた巡視路を歩むようなり,経路や古い作業道へと進み,踏跡から藪山を目指すようなる。


     今は2つの登山靴を時期に合わせ使用している。2011年10月,アートスポーツの勧めで軽量の布製スカパ登山靴を購入。
   無雪期用と別けて使用している。用途さえ合わせ分ければ,更に素晴らしい靴達になった。

    カルチャーショック
     私にとって3度目のカルチャーショックを受ける。
   最初は40年以上も前に,冬山で明大植村直己氏がエベレスト遠征の折,使用していた羽毛のキルデングを借りて,山に入ったことがある。
   当時,羽毛は驚異の防寒具だった。高価過ぎ,テパートに一着あるかどうかで,スポーツ専門店でも置いていない貴重な代物だった。

     そして2度目はハンワグ革製の登山靴を購入した頃, この20年で山の衣類,道具全てが軽量化され,技術の進歩に驚嘆させられている。
   ゴアテックスを知り,天幕からアイゼン,ピッケルと述べたら切がないほど山道具は変貌を遂げていた。

    新登山靴
     今回は5代目の登山靴が登場した。今年4月2日にスカパカイ ラッシュGTX登山靴の水漏検査に出した靴が,新品で送り戻されてきた。
   内容はゴアTMセントリフェーガルテスト(靴内部に水を入れ,靴を所定の速度で回転させ外側への水漏の有無を確認する)の実施。

     結果は左靴より漏水が確認された。「今回は分解調査は行われていませんので,原因を特定するに至っておりません。
   よってゴアの防水加工費¥12.312をもって新製品と交換させて頂きます。」・・日本ゴア(株)プロダクション&テクニカルセンター,

     この登山靴は2011年11月,吾妻連峰を南下し縦走した時が初使用。2013年12月に大菩薩吹切尾根野脇東尾根を歩み,気になりだしていた。
   約2年間半の無雪期に使用したことになる。学生時代と同じ2年で,靴底もくたびれ,張り替え¥15.000位を考えていたところだった。
   SCカイラシュMG#42が新品交換で,4月11日に直接自宅に送られてきた。

     厚紙ケースに入った真新しい5代目の登山靴を見て,幸福をもたらす登山靴になる。
   近年息子がスーパートレイルにはまり,山や野原を一昼夜で100マイルを走っている。それを見ると更なる衣類や靴の軽量化が進んでいた。
   トレイルに比べれば蟻のような歩き方だが,それでも自分なりに藪山に踏跡を求め,もう少し歩こうと思っている。

     2014年04月10日,自宅で


     その後,2018年6月に奥多摩の峰入川谷に入渓し布滝に回った折,下山してから見たスカパ登山靴は布皮と靴底の間が酷く抉られ切れていた。
   外見は見栄えが非常に悪くなっている。それでも防水加工はまだ利いていた。ただ歳に合わせ新調した方が無難に思われ,アートスポーツへ。

     今回勧められたのは国産のシリオブーツのP,F,46型, ナイロンにヌバック素材の中山用。型はスカパと同型で靴紐がワンタッチで止められるシステム。
   6台目は一週間後の金峰山山行に合わせ,本日より靴慣らしになる。・・5%引き税込み¥20.520,アートスポーツ本店

     登山靴歴・・1963年04月より
     2018年07月01日,


      インターネット2チャンネルから



     2015年02月10日,阿弥陀岳で学習院山岳部の遭難が速報で流れる。
   部員5名が7日に入山し,阿弥陀岳を登った後,8日夜には下山する予定でいが,ホアイトアウトで迷い山中でビバーク。
   9日朝下山を始めるが1年女子部員が動けなくなり,主将の4年生が付き添い,残る3人は行者小屋のキャンプに戻り,救助を要請した。
   そして長野県警が2人を捜査し,11日に残念だが遺体で発見された。

     その数日後,私のHP「川辺と山径」のアクセスが急激に伸びる。それも1つのサイトに絞られていた。
   妻に解析を頼むと,まず2チャンネルに乗せられたことから始まっていた。20番目位に私のHPのアドレスが記載されていた。
   その後は「よく見付けたもんだ!」とある。それから更に急に増えている。

     古いサイトで1960年代半ばに,春の阿弥陀南稜を往復している。無名峰南鞍部にベースを設け,頂稜を詰め,立場川本谷を下っていた。
   遭難は反対側の広河原側になるが滑落し,雪崩に遭った可能性もあるとみている。
   県警ヘリが手袋を見付け,ビーコンで2人が発見された。2人は雪崩末端の1.5m下でザイルを結び合っていたと云う。

     遭難位置は異なるも,似たように尾根を隔てたルンゼ状の谷。よく昔のサイトを見付けだしたと感心させられる。
   2チャンネルには中傷や批判も多く載せられている。当事者しか分からぬことも多い筈である。
   ただ検索方法次第ではPCから多くに知識が得られるのも確かだった。亡くなった方にはお悔やみを。又パソコンの素晴らしさ改めて知る。


     PCで便利になる反面,山に対する発想の違いから,山岳雑誌は多種多彩に増えるが又,販売量は減っている。
   同好会「明峰」平成27年01月発行のコラムに,「山岳雑誌の行方」と題して,こんな句だしが書かれていた。
   「今まで山岳雑誌で一番初めに発行されたのが「山と渓谷」で,二番目に「岳人」が発行されていた。

     その岳人が今年の9月号より,発行元が中日新聞から「モンベル」に変わることになりました。
   編集長もモンベルグループの代表である辰野勇氏に代わり,一新することになったようです。

     岳人の創刊は1947年(s22年),京都山岳部の有志によるものを,中日新聞が引継ぎ今日に至っていますが,時の流れと共に,登山や冒険家に
   対する価値観の変貌等に加え,インターネットの普及により情報が容易に得られるようなった事や,近年若者の活字離れが進んだ為もあって,
   このまま継続するのが難しくなって来たことを聞くようになり,モンベル代表の辰野氏が引継いて発刊して行くことを決意したようだ。

     私も岳人を中心に山と渓谷も愛読させて頂いていたが再び山に登り始め,HPを作っていることもあり,アプローチを含めインターネットから
   情報を得ることは多くなっている。山への構想が浮かび上がると地勢図から始まり,周りの地形なり地質を調べ,交通機関は尚更になる。
   便利の反面,何冊も必要とした本類が少なくなったのは確かである。ただ私にとって紀行を綴る本が山への構想の基礎になっている。


     2015年02月20日,自宅で


      再,海猫



     東北地方太平洋沖地震の海猫騒動から大分落ち付いたと思われたが,7月に入り海猫が急に目立ち現れるようなる。
   我が家のバルコニーにも久し振り糞が落ち,路上に落ちる白い糞も数を増していた。
   猛暑になるにつれ,今年は台東区元浅草から東上野,台東へとやや西側地区に被害の広がりを見せていた。

     広く蒼空が見上げられる竹町公園の頭上には朝ともなると数十羽が「ギャー,ギャー」と叫び声を上げ,飛翔し脅かされたカラスや鳩は姿を消している。
   大震災から4年が過ぎ,ここで繁殖した海猫が再び飛来しているのだろうか? 昨年に比べると目立つようにも思えた。
   震災の災害地として2週間前に訪れた陸前女川町は,「陸前江ノ島のウミナコ」繁殖地として,国の天然記念物に指定されている。・・2015年07月

     本来は東北の沿岸部が生息地で,慶大鳥類学特任教授,樋口広芳氏によると「1990年代,上野動物園で飼っていた海猫を東京湾で放したところ,
   一部が園に戻り,繁殖したのが起源とされ,ている。津波で繁殖地が流され飛来した可能性も高い。」と述べている。
   ・・日テレの「スーパーモンニング」,朝日新聞

     都市での繁殖は世界でも稀で,2015年07月にも,上野不忍池を中心とした海猫は100羽を超し,木杭に留まり列をなし翼を休めていた。
   台東区は2011年に区内のビル屋上にに初めて巣が確認され,13年には200羽を超し,昨年は不忍池にユリカモメ,海猫,キンクロ,オナガガモ等が共存していた。

     今年は少なくなると思われた海猫が,今でも我が家の上空で縄張りを示すよう,奇声を響きかせ飛翔している。
   台東区では対策に乗り出しているものの,ビルの屋上をネットで塞ぐ対策は次々に巣が作られ,「いたちごっこ」のようだ。
   専門家からは「共存を目指すべきだ!」との声もある。


     2013年06月・・海猫, 2015年07月18日,竹町で


      平成の夜空と人工衛星



     2,015年08月31日,自宅の7F,バルコニーから望むと,正面に夜空に浮かぶスカイツリーが色鮮やかな照明に照らされ,美光を放っている。
   日が陰っても蒸す暑さ。昼間は夏日を迎えていた。「国際宇宙ステーション」の軌道を妻が下調べし,今かと北側に広がる空を見上げている。

     南方には雲が切れ,星空が煌めくも北の夜空はベールのような薄い層雲に覆われていた。20時32分には現れる筈の衛星はなかなか現れなかった。
   諦め掛けた時,北西側から北東へ,誰でも分かる明るい光線が一定速度でぶれることなく綺麗な曲線を描き横切る。
   過ってみた人工衛星に比べると驚くほど,木星並の明るさを持ち,肉眼でも楽に観察ができ,そして大きい。

     先月23日に油井亀美也宇宙飛行士が乗り込んだロシアの「ソユーズ宇宙船」が打ち上がられ,この「国際宇宙ステーション」に着船された。
   そしてステーションの中央付近にある日本の実験棟「きぼう」には,油井飛行士が今乗船している。遠くから見詰める不思議な気持の世界。
   話題としては理屈で分かるのものの,現実に飛行士が乗る衛星基地を不可解な気持で見送っていた。

     初めて軌道を飛行する人工衛星を見たのは1940年代後半,私が小学生の頃だった。
   上野近くの竹町公園から何処の国の衛星かは忘れてしまったが,ソ連か米国。妻も私の同郷で共に見上げていた。東から西へ人工衛星と思われる
   幾らか淡い光を放す機体が,一直線に大空を横切っていた。数年前に,ソ連の「スプートニク1号」が世界初の人工衛星を打ち上げた頃である。

     その後子供達が私達と同じ年齢になった頃, 家族で何度も上野の山,科学博物館屋上で天体望遠鏡を覗き込み土星や木星を観測していた。
   空を見ては雲のないことを確認し出向いている。その続きではないが1986年3月,「ハレー彗星」を観測に,富士山四合目山麓に家族でで出掛けていた。
   満点の星空の下,雪原台地で夜明けを待ち続けたが,地平線は朝霧が掛かり,76年振りの地球接近は見定められらかった。後は子供達の時代になる。

     そして同年8月24日の夜明け前,八ケ岳行者小屋前で星空を横切る人工衛星を見上げていた。
   星が煌めく中,三等星ほどの光が点滅せず,すーっと一定の速度で阿弥陀岳の山頂付近から横岳に向かい飛行していた。

     そして明るい流星も幾つか見ている。明け方には昇る日の出の太陽と阿弥陀岳に落ちる淡白い満月の月を同時に見上げてもいた。
   この時の子供達の驚きと好奇心の目,私は幼い時の自分を想い出していた。

     現在では衛星観測は晴天ならば何時でも何基か,観測できるようなった。それほど衛星が多く,地球を回っていることになる。
   昨年10月に打ち上げられた気象静止衛星「ひまわり8号」は各種の確認,実験を実地し,先月七夕の日に運用を開始している。
   それに伴い,天気予報は精度を高め,温暖化が進む兆しをより具体的に示すようなった。 検索・・HP,「人工衛星観測ナビゲータ」


     2015年08月02日,竹町で


      会報「明峰」2015年第3号・・ヒマラヤ,鉄の時代の到来



     社会人明峰山岳会から独立した老齢の元明峰山岳会の仲間達が集い,同好会を催している。そして年に3度,機関紙「明峰」を発行している。
   山田氏が中心になり,紀行に始り,山に対する思考や例会を持ち行事等,充実した内容になっている。私は3年ほど前から拝読させて頂いていた。
   山行の難度云々と云う時代を超越し,山を愛でる仲間達が集い,山を噛みしめる哀愁漂う機関紙になっていた。

     今回拝読した「明峰」,平成17年3月号の扉ページに「ヒマラヤ,鉄の時代の到来」とある。前文には「近年,ヒマラヤ等での登山スタイルが従来と
   違った傾向になってきました。何十年か前に『今だヒマラヤには鉄の時代がこないし,縦走もされていない』と書いた記憶がありますが,
   この数年にわたって,ヒマラヤの8000m峰の登頂を目指すのではなく,5.000mから7.000m峰の岩壁からの登攀が多く見られるようなっている。
   又それらの縦走も見受けられ,より困難を求めた登山が主流になりつつあります。」とある。

     エベレストに年間500人もの登頂者を数える現在,魅力は半減し,又ここ2,3年のネパールヒマラヤではシェルパの大量遭難や大雪による雪崩事故が続き,
   大地震での被害などが相次ぎ起こり,エベレストなどネパール側からの登山ができないのが現状です。それに変わり,インドヒマラヤでは2014年秋から
   解禁され,カラコルムや天山山脈にも岩壁登攀を主とした登山が展開され,その他には世界各地の高峰で岩壁登攀の傾向は顕著で,漸くヒマラヤにも
   本格的な「鉄の時代」がやってきたようです。

     山田氏が42年前,「チューレンヒマール」に行った時代には岩壁の登攀は考えていませんでした。」と伝えていた。「明峰」の後ろページ,「アラカルト」には
   42年前の1974年5月23日付けの切り抜きの新聞スポーツ短信のスクラップが載せられていた。内容は「☆明峰山岳会,登頂断念 22日,カトマンズの
   日本大使館に届いた連絡によると,ヒマヤラのチューレンヒマール(7.370m)の未踏の西尾根を目指していた東京・明峰山岳会(山田洋昭隊長ら6人)は,
   第四キャンプ設営後,登頂をあきらめ,下山を開始した。(ロイター)」。

     山田氏によると「ベースキャンプを目の前に降り込まれて10日以上もロスしてしまった為,キャンプ1つを減らし,直接稜線を目指して図らずも『南西壁』を
   登攀するルートを選択したのですが,やはりヒマラヤでの岩壁登攀は難しい側面は拭えませんでした。」とある。

     お話によると同好会の皆さんは当時と合わせても80歳代も多い長老組。ただ心の中は今も青春のまっただかを歩んでいるようだった。
   「まだ負けぬと!」との声が聞こえてくるようだ。


     2016年01月16日,竹町で


      都民の森へ路線バス・・檜原街道



     jr武蔵五日市駅前,広場から乗り込んだ数馬行,路線バスは12人ほど乗客で,一種の通勤バスになっていた。
   ハイカーは出発間際に飛び込んできた単独行を含め,私と2人。
   五日市街道に入り,駅から遠去かるにつれ1人,2人と減り,十里木バス停前では彼と私,2人だけになった。前回乗車した十里木に荷田子を過ぎる。

     初めて五日市駅を訪れたのは30年ほど前の秋,子供達と御岳山を越え七代ノ滝を見物し養沢川へ降りている。
   最近では先月,大岳山御坂尾根から馬頭刈尾根を周回し十里木にでいる。

     冬至を前に早い日没の中,三ッ合鍾乳洞から寒風に耐えながら帳を迎えた十里木まで歩んでいる。
   荷田子には一昨年の大雪の後,草木尾根から醍醐丸を越え,初めて戸倉山域に入り,伐採された雪原から樹林絡む残雪の森に入っていた。

     荷田子の直ぐ隣りが畔荷田で,あきる野市から檜原村に入る。すると車内は子供達の元気な声が響き渡る通学バスに変わっている。
   車内は知らずして10名ほどに増えていた。バス停にしては数では何駅もないが,払沢の滝入口まで走り,バスは折り返している。

     中本宿を右折すると浅間尾根の末端を大きく回り込み,谷間をうねり狭まると笹平にでる。ここは浅間尾根,松生山の登山口でもある。
   12年に北ア猛暑トレーイングを行い鎌沢尾根から万六山北東尾根を下っている。その折は笹平の野村邸で,バスの来る時刻まで休まして頂いている。


     周りは一面見渡す限りの残雪に覆われた。樹林の枝々には昨夜の新雪を乗せ,雪粒を踏みつぶす路面だけが色を滲ませる白一色の世界になる。
   柏木野南斜面の樹氷は煌めきを増し,頭上には雲を切り蒼空が見え始めていた。エンジンをうならせ高度を上げると空の蒼さは更に増し,
   陽光が車窓にも射しだし煌めきだしていた。

     南側から朝陽が強く差し込む出畑bs付近で,以前乗車したことがある。三頭山から笹尾根を下り,大羽根山で迷い,森川を下り,檜原街道にでる。
   時間をもてあそび,森川から出畑まで,市道山吊尾根を正面に見つつ街道を下っていた。
   その直ぐ先が5年前の春先に訪れた京岳バス停。熊倉山省武連指尾根からトヤド浅間に寄り,雪田を踏みながら京岳から「瀬音の湯」,十里木にでる。

     檜原街道,上川乗バス停で彼は降りている。ここには笹尾根浅間峠への登山口があり,車内は私と運転士だけになった。
   南秋川の河原がV字に広がりを見せると車内も明るさを増し,陽の射し込む明暗をはっきりさせていた。
   すっきりした大寒の空,暖房の利き過ぎた車内にいる私。1人でいるのが贅沢に思える。

     下和田バス停を過ぎる。気にもしていなかったが和田の地名は以外と多い。特に桂川葛野川流域には頭に上,中,下を付け,
   流域全体にこの名が印されている。帰路通った笹尾根南面には逆の名を示す「田和」があった。ここは人里峠から浅間嶺への登山口があるようだ。

     森沢口から数馬に入れば路面は薄ら白さを増し,除雪車と擦れ違う。「数馬の湯」を過ぎれば仲ノ平,南集落の入口にでる。
   ここには笹尾根上平へ登るダイレクトな昔の作業道があった。地元の老人に教わる間々登った覚えがある。
   仲田平を過ぎると更に高度を上げ終点,数馬バス停に着く。都道206号線,この先は名を変え奥多摩周遊道路となり,都民の森と繋がれていた。


     2016年02月,三頭山笹尾根から西原峠を経て郷原


      jr御徒町駅



     6年前の師走,南大菩薩連嶺,笹子雁ケ腹摺山に出掛けた折,朝早く,jr御徒町駅の開場前に着き,都道,春日通りを跨ぐガードの西脇壁に,
   ガード名が「東北本線34,切通橋ガード」とレンガに埋め込まているのを見ている。それから6年が経ち,駅構内,高架の耐震,改修工事が今,行われている。

     駅ホーム東側の留置線の2本を転用して東北縦貫線(上野東京ライン)が運行され,2014年には山手線にホームドアが設置されている。
   2011年頃から北口のエレベーター,エスカレーターに多機能トイレなどのバリアフィー設備も設置され,南口の改修工事も進んでいる。

     耐震改修された北口の切通橋高架橋は以前の側壁は鉄板で埋め込まれていたが,今は上野駅よりの西脇壁にポスター形式で張られていた。
   「東北線(34)切通橋ガード・・お願い,自動車等が衝突したのを見た方は,至急御連絡下さい。jr東日本,東京施設指令」とあり,
   衝突と電話番号は消されている。

     ガード名の由来は江戸時代の後期,1829年(文政12年)の「御府内備考」に記載され,ガードから西500mにある「切通坂」,
   湯島天神への登り坂を差している。初めは短い急坂だったようだが,1904年(明治37年)に市電を通す為,緩やかな道に変えている。
   1956年(S31年)の国土地理院地形図には「切通坂」,「切通町」の表示がある。

     国鉄御徒町駅は1925(T14年)11月開業,初めて建設された高架線は線路3線分,ホームは1本, 山手線環状運転が開始しされた時になる。
   品川駅までだったが貨物駅だった秋葉原駅と同時に,御徒町駅は旅客駅として開業し,上野駅まで延長された。


     jr駅構内の高架橋には7本の軌道が並行して利用されている。その内訳は切通橋架道橋の内側3本は現在,京浜東北線北行き,山手線2本。
   竣工1924年(T13年),

     山手線と京浜東北線は完全分離方式,
   中側2本は京浜東北線南行き,常磐線及び引き込み線。竣工1929年(S4年),内側との4本目との間には駅スペースを当時から確保していた。
   国鉄は大正の終わりの時期には山手線と京浜東北の分離,方向別配線,方向配置線との基本方針を決めていた。
   山手線,2014,01・・宝塚広告車両(晴明盤から岩殿山)

     外側2本は留置線から現在は縦貫線,上野東京ライン2本。竣工1955年(S30年),
   翌年には田端=田町間電車線複々線化し,山手線と京浜東北線の完全分離された。
   上野東京ライン,2014,02・・御徒町4番線ホームより(豪雪の高尾山)
   上野東京ライン,2015,10・・小田原駅より乗車して(伊豆天城山)

     現在ホームはその遺蹟として,ホーム1,2番線の屋根に,昭和中期,後から造られた新ホームに細い梁として古いレールが使用されている。
   柱部分にはX字を組んでいるのが見られる。


     駅周辺のガード・・架道橋と高架橋

   魔利支天高架道橋
     第1上野町高架橋
   切通橋架道橋
     第3御徒町高架橋
   同朋橋架道橋
     第2御徒町陸橋ガード
   長者橋架道橋
     第1御徒町陸橋ガード
   練塀橋架道橋
      〃
東北線(35)
東北線
東北線(34)
東北線
東北線(33)
東北線(32)
東北線(21)
東北線(20)
東北線(31)
御徒町北側の高架橋は何の変哲もないRC柱で倉庫,駐車場が以前は多かった・・鉄板で補強
・・高架橋アメ横寄り
都道春日通り
・・高架橋駅北口改札
神田明神同朋町があった。江戸時代に御坊主衆,別名同朋衆が住む屋敷町だったことから。駅南口,
・・高架橋の一部だが「陸橋」が付いている。駅南口改札,架道橋ではないので番外
町名より名付けられている。江戸時代,朝日長者と呼ばれる分権者住んでいた。
・・高架橋の一部, 駅南側最初のガード,「第2御徒町陸橋ガード」番外
都道蔵前通り, 外側南側端部は最期までフラットスラブ・・貨物駅へと続いていた高架橋(撤去)
真下の上野 第一トンネルに新幹線,道路側は「つくばエクスプレス」, 

     2016年12月,竹町で



      峠の茶屋 力餅・・奥羽本線



     2017年02月15日,午後5時のテレビ朝日「スーパーJチャンネル」の番組の中で,秘境の駅が特集されていた。
   宗谷本線の駅名は忘れたがアザラシが港にいる駅。山陰本線の地上20mにある天上の駅。それに奥羽本線,峠駅の力餅が放映された。

     奥羽本線の板谷隧道を掘っていた人が餅を売ったことから「力餅」の販売が始まったらしい。
   私が学生時代,春期合宿は五色温泉を起点に,毎年,板谷から通っていた峠駅。栂森から名だけが残る駅前の峠スキー場を登り降りしていた。

     それ故,力餅をご馳走になる筈が一度も車窓販売のチャンスに巡り合わず,私は試食もしていなかった。
   開業から114年が過ぎ,現在は5代目が商売を継ぎ,駅立売を続けていると放映された。それを聞き驚かされている。

     jr東日本管内にあって駅達売を行っているのはもはやここだけだと店主は云う。売れない日が4〜5日続くこともあると嘆いている。
   予約ない場合は上り,下り,一日6本で販売し,停車時間は30秒。計6分を勝負に駅立売を行っている。
   それでも「駅達売りの文化を残したい。継続するからこそ,峠の茶屋なのである。」と謳っている。

     山形県米沢市大字字峠にあり,奥羽本線の最高地点,626mにある無人駅。峠と云う駅はあるが峠と云う地名はない。
   「峠の茶屋」は市役所の台帳では「大沢848」,営業書の住所は「峠駅前848」。郵便番号さえ正しければ「峠 モチ屋」の3文字で郵便物は届くとある。


     国鉄からJRに変わり,山形新幹線の開業まで,普通列車はスイッチバックを利用していた。
   その為,複雑な線路やポイントなどの施設を駅構内に設け,それらを守るためスノーシュッドで被われていた。
   スイッチバックが廃止後には新たにスノーシュッドが設けられ,ホームの覆屋として流用されている。

     峠駅からはどちらも下りになるため,蒸気機関車時代は機関車の前後入れ替えが行われ,その為の線路,
   最奥の避難線へ進入のためのポイントがあり,ポイントを守るためのスノーシュッドが設置されていた。
   この3台目の時代の昔のスノーシュッドは板谷駅と同様に今も残存されている。


     2017年02月,奥羽本線峠駅・・板谷周辺その後


      追悼・・山田洋昭さま



     山田洋昭氏は慢性腎不全で体内に尿毒症状が長い間,冒されていたものの,人工透析を受けながら医師と相談し,何年も山へ元気よく出掛けていた。
   今年に入り心臓の弁手術を受けた頃からか,闘病生活を繰り返し,体の衰えを取り戻すことができなかった。7月5日御前2時05分逝去されました。
   享年76才,哀悼の意を表し謹んでお悔やみ申し上げます。


     歳も歳だと云うと怒られるほど気力の強く,年に一度は過ってホームグランドにしていた甲斐駒周辺や,白馬岳周辺に出向いている。
   山田氏が先輩と称する長老仲間達を引き連れては,山小屋や越後などの懐かしい山々に出掛けていたことは,よく聞かされていた。

     山田氏とは互いに隣接する町会に接し,直線距離で300mほどもないにも拘らず,町会連合ではよく顔を合わせるものの,
   数年前までは山の話をすることはなかった。それがふとした切っ掛けで語り合うようなる。
   月に一度は町会長の藤原氏,同業者だった駒木氏と4人で,山話を始め,色々な話を語っていた。

     山田氏は社会人山岳会として名を成した歴史ある「明峯山岳会」に属し,高校時代から登り始め,今は76歳を迎えても現役を通していた。
   親から続く二代目で精鋭的な雪山や岩壁登攀では初登攀を幾つも成し遂げ,月刊誌「岳人」毎日新聞社には常に「名峯」の名が載った時代があった。

     半世紀以上前の海外遠征と云えば殆どが大学に属する山岳部がヒマラヤを目指していた。その中で昭和49年02月から06月に掛け,チューレンヒマールに
   隊長として遠征している。隊員6人,300名のサポーターを雇い,登頂まで後500m程迫った所で,欲しくも断念していた。
   登頂できなかったとはいえ,社会人山岳会の遠征としては珍しく,その功績は素晴らしかった。

     私の学生時代,50年ほど前になるが明峯山岳会の会員と山で出会い,北鎌を共に登ったことがあると山田さんに語ったことがある。
   すると創立80周年記念誌「想いはるかに」1929〜2009年編集者係今沢聖,寺倉忠宏,平成22年01月02日発行の中で,
   飛んでもない文章を山田さんが見付けてきた。本の中に私のザック,「RHC」を見付けている。

     彼のサブザックには「名峰会」とネームがあり,私のHP「山辺と山径」とを合わせ,山で出会っていたことを確信したのだろう。
   互いに単独で北鎌尾根を目指し七倉までタクシーを相乗りし,高瀬川を互いに擦れ違うよう歩き,彼は北鎌平でビバーク,私はその下の草地に遠慮していた。
   そして独標付近からはどちらかが休めば互いに休み,一言,二言語っては槍の穂へ辿っている。

     お通夜には山田さんの山仲間が大勢集まっていた。私が焼香した時点で,山岳会関係者のご焼香は160名を超していた。
   受付で話せる方を紹介して頂き,山田氏との関係と名峰会の昔の山仲間,堺沢氏の知る人にお会いできた。
   私と共にした彼はその後遭難し,相手方を亡くして山とも離れていた。そして今は八王子で内装の仕事を元気よくしていると知らされた。

     今,名峰山岳会は精鋭と長老とに2つの組織に分かれている。今でも長老組は活動を続け,機関紙も発行している。その中心にいたのが山田氏。
   ここまで長く会が活動を続けられているのも,外から見ている私さえ,山田氏の活躍があってだからこそだと感じさせられていた。
   これからも更に長く名峰山岳会が輝き繋がり続くことを願い,又山田さんの冥福をお祈りし,私の感謝の言葉に返させて頂きます。


     2017年07月10日


      「新宿駅発23時55分,各駅停車長野行があったころ」



     「奥秩父 山,谷,峠そして人」山田哲哉著の第一章「山」の文章の中に,このコラムを見付けた時は私の心に懐かしい響きとして伝わってきいた。
   このタイトルと同じ青春時代を過ごした私なりに,山へのアプローチとして思い出すままに,当時の列車事情を綴ってみることにした。

     本文には新宿発最終列車で大菩薩に入るアプローチとして,国鉄の当時の様子が綴られていた。私もこの文章の5,6年前から同じよう山に登っている。
   第2次登山ブームに乗った高校時代には週末になると上野駅や新宿駅には溢れるほどの登山者が集まり,私もその一人だった。
   新宿発各駅停車長野行と上野発長岡行は共に山岳夜行列車の肩書を持つほど週末になると多くの登山者が集中してた。


     電気機関車に牽引された客車の乗降口は手動式で手で開け閉めし,座れれぬと座席下の木床に新聞紙を敷き寝転ぶのが当たり前だった。
   新宿発の列車は塩山で大菩薩に向かう登山者をドッと降し,八ケ岳に向かう茅野を過ぎると,車内はガラガラになっている。
   上野発の上越線では沼田で尾瀬に入る登山者を降し,土合を過ぎると常に車内は使い古した新聞紙が放置され舞っていた。

     スキーシーズンになると上野駅発の信越線,特に上越線は登山者を含め,最終列車に乗り切れず,臨時が増発され,更なる増発も当たり前の時代。
   当時スキー板は当然持参し,発車直前にはスキー板なり,人までが窓から出入りしたことも稀でなかった。
   それ故,両駅ではホームとは別に,夕方になると列車毎の待合場所が他に設けられている。


    中央東線
     山がメーンになる新宿駅の最終列車長野行は23時55分発になる。何度乗ったことか。この列車の運行には少し違った配慮がなされていた。
   高尾から大月間は最終列車として,小淵沢では小海線の始発に接続されている。その為日野春(現甲斐大和)では長く55分ほどの停車がある。

     小淵沢から上諏訪間は本線の始発列車になり,辰野では飯田線の始発と接続,塩尻では中央西線の始発に接続している。
   更に松本では小糸線の始発に,終点長野では地域線と接続していた。今思えばどの列車の接続とも,山へのアプローチとして通い続けていた。

     又近郊では登山者の為,地域限定の夜行列車が運行されている。
   「大菩薩号」や「河口湖号」がそれにあたり,他に私が乗車した小田急の「丹沢号」や,今でも運行している東武の「日光号」がある。

     中央本線は東京を中心とした各本線の中では,スピードと云い,列車の開発も遅い路線だった。
   安雲三ダムの建設で,資材は東京で生産された為,松本までの複線が漸く進んでいる。小仏トンネルの規格外に狭かったのも,その原因になっている。
   当時長距離としては下山してから乗る急行「アルプス」が新宿に向かい,後は急行「穂高」を利用している。


     2ページほどの短いコラムだが楽しく,懐かしく拝読させて頂いた。ただ「高校生は正規に切符を買って改札を潜るものは皆無だった。」との
   文章には反論がある。私だけでなく高校時代には単独や同期仲間と何度も通い,中央東線には長短に拘らず正規に乗車券を買い求めている。
   活字で示され驚くとともに極端な言い回しには,同年輩として残念な気持ちを起こさせていた。


     中央東線の旅T,幼い時代,学生時代
     中央東線の旅U,s40年代,OB鈍行の旅・・車窓の旅,小糸線安雲沓掛へ, 中央東線の歩み
     中央本線の歩み,開業120周年を迎え
     中央東線複線化と安雲3ダム
     jr2006年と20年前,40年前の国鉄中央東線


     2017年10月20日


      幼馴染みの百名山



     6月10日,幼馴染みの長塩から「私の百名山」と題した報告書が送られてきた。最後の百番目は昨年の初秋に登頂した東北の朝日岳。
   祝杯を挙げ幾日か。最初の登頂は高1の時の奥多摩雲取山。翌年夏には私と共に南アルプスの仙丈岳,北岳に登っている。

     彼は高校時代に8座を登り,明大山岳部に入部してから29座。社会人になり勤め終わるまでに計97座を登り終えている。
   更に3座を残し古希を迎え,最終座を登り終えた。又RHC私の一年後輩の三田嬢も百名山を終え,今は二百名山を目指しているとか。

     私のよう同じ山ばかり登っている者には真似のできぬ技だった。
   藪山に入り藪枝の隙間から隣りの尾根を見詰めては新たな意欲に掻き立てられ登る私。
   正確ではないが以前數えたところ,私の百名山は60座中半だったと思う。

     大型カメラを持ち山行に望む彼の姿勢はその記録写真も膨大な資料として残されている。
   不思議なことにその1枚の写真を見て,その時の行程全てが想い出されるのは山に趣味を持つ者の特権かも知れない。

     少し足に負担が掛かっているようだが,百名山と云う1つの偉大な目標を成し遂げ,足が治れば新たな山に彼は出向くだろう。
   まずはおめでとうございます。ご苦労さまでした。・・彼との幼馴染山行


     2018年6月20日