山径への私感



     新人養成
    心の独り言
    貨物列車
    女子夏合宿,サブとして
    リーダー養成山行
    山に向かって 
    42,年間活動報告
    新人養成山域選定に関して
    女子リーダー論
    夏合宿V,リーダー後記
    主将としての秋合宿
    春合宿,リーダー後記
    年間研究報告, 藪漕ぎ
    ・・・「峠」4号,扉より
    越後の山
    富士の驚異・・・御殿場五合目
    
    10周年を祝う
    山へのアプローチ
    沢登りと日本人
    憧れの絆
    槍の径
    我が家の山に対する教訓
    5月の山, 田沼栄一氏,
     尾瀬の風, 田沼氏
    読売新道
     藪山と青梅街道
    北方稜線大猫山
    山登り考査
    長野中条の古民家
    「天城山 山行記から」
    角間山スノーシュトレッキンク
    ナンダ・コート再登頂に挑む


s40年度・・奥秩父
「峠2号」より・・・燕岳への入山道中
保坂洋氏・・・「峠」創刊号より, 池袋駅ホーム
妙高,白馬三山
北岳,塩見岳
三浦俊彦・・・「峠3号」より
主将,松村進
奥秩父から北八ケ岳

北アルプス全山
越後の藪山
吾妻連峰東北部
「峠4号」より・・平ケ岳〜至仏山


御殿場五合目

甲籐善彦氏・・・「峠」5号より
早月尾根
小常谷本谷
「峠6号」より
横尾谷本谷
山中湖キャンプ
「峠18号」より
創立50周年記念山行
「峠18号」より・・・ 創立50周年記念山行
「峠18号」より
「峠19号」より
竹町で, 再び山へ
新津宅で囲炉裏を囲む会
s48年卒,青山裕子・・・OB親睦ハイク,伊豆天城
s53年卒,加波至・・・OB親睦鹿沢山行
立教大学山岳部




        新人養成


   新人養成合宿と云うことで,扱かれることは,ある程度覚悟していたが,自然の悪条件と特に山行中に調子を壊したのが響き,苦しい合宿になる。
     降雨と積雪に悩まされ,先輩には煽られるも,好奇心が先に立ち,如何にか付いて行くことができた。

   残雪が多くなるにつれ,雪山における苦が現れだし,もがきながら登り詰める先輩の活発な動きには驚かされている。
     特に西村先輩は何処からあんな力が,絶え間なく出てくるのか不思議に思えるほど強かった。

   大弛小屋肩に出たあたりから残雪は少なくなってきた。ただ明け方,冷えたのか腹痛が激しく,中々痛みは治まらなかった。
     昨夜は初めてのテント生活,それも初めての雪上設営, 初めての体験が多くなかなか眠れず,寝冷えしたらしい。腹は一時ひどく痛んだ。

   「これではもつまい。この間々下山したらな〜。」との考えが起きている。隊を組み歩いていると調子の悪さを忘れるが,東京に着くまで直らなかった。
     食欲は全然なく,後に差し支えると思い,無理に御数だけは我慢して食べた。ただ如何いうわけか,間食はよく食べたようだった。

   だが,苦しいばかりではなかった。嬉しいことに,ずっと長く悩んでいた肉離れの恐れは薄れている。
     長い間勉学に励み,山へ行かなかった為か,クラブのトレーニングの成果が現れたのか,自分の足に自信を持てるようなっていた。

   先輩の怒なれながら何も知らない我々に無知の知識に好奇心を持たせ,習得できた歓びもある。そして集中地でのキャンプファイヤーは癒された。
     展望は中々望めなかったが金峰山への最後の登りで,よく山の本の挿絵に出てくる蒼空と雪白き残雪に,這松の緑の配色に目を奪われた。
     そして富士見平から雨上がりの小道, 白樺の湿った大地を歩み,心が洗われている。何とも云えぬ気分をもたらしていた。

   山々は深く荘厳である。そこへ苦闘の存在を知りながら,行きたくなるのは何故であろうか。
     人を惹き付ける山の魅力,口に出しても説明できない何かがある。それを求めクラブと共に,より多くの山行に出向こうと考えている。

   僕にとって体の不調と肉離れと云う足の恐れがある中で,行われた合宿は,一層有意義で嬉しいことになった。
     そしてこう云うピンチの時,その対処の難しさ,恐れず,学ぼうと思っている。


     「落葉松」27号より,s40年05月



        心の独り言


   部屋全部を占領して,ザックになにやかにやと詰めている。
     詰めているうちに,あれこれと忘れ物を思い出し,何時の間にか出掛ける時間になってしまった。
     家から新宿まで40分もあれば間に会う。

   集合40分前きっかりに家をでる。
     何時もながら出掛ける時,家族の者全員が玄関までゾロゾロ出てくるのには,全く閉屈てしまう。

   暗い夜道をを重いザックに靴の音を響かせ,ゆっくり歩む。時々,通りかかりの人が必ずと云っていい程,奇妙な目でこちらを見た。
     「バカでっかいザックを背負って,わざわざ山に登るなんてバカどろう。」などと云う目付きで見る奴もいる。

   それなのにヤカンやナベを付けていれば,尚更である。
     しかし,時には余りにも人に注目されると自分が偉くなった様な気持になるのも不思議なことである。
     まあ,心の持ち方で良くも悪くもなるのだから良い方にしておこう。

   乗車券は何時も定期で入り途中で買うことにしている。改札口では体を横にして,漸く通過した。
     ここでも駅員が,だるそうに「山に行くのですか!」と今にも言い出しそうな顔で,こちらをちらっと覗いている。

   駅ホームに上がる。ここでも注目の的である。まして車内なら尚更である。
     それも見るなら見るらしく見れば良いものを,見たくないけれど何となく,見ない振りをしてチラチラ見る。
     まるで狐だ。ご丁寧に見返しやると,とぼけた顔をして目をそらしてしまう。

   先日もヤカンを角にぶつけて鈍い音をだした。すると皆,何だとばかりこちらを向く。
     山登りを始めた頃は,恥ずかしく下を向いてしまったものだが,今では貫禄が付いたと云うか,それが如何したとばかり,どっしり構えるようなった。

   2ッ目の駅,神田駅で乗り換えた中央線はラッシュが過ぎたのに,まだ混んでいる。
     ここでの最初の仕事は,乗り換えたら直ぐ,乗り降りの激しくない所にザックを置くことである。

   肩が相手の衣服に触れるなどすると嫌な顔をして見られた。その目付きが可笑しい顔で,つい笑ってしまった。 
     シャツの色はあせているが,まだ山に出掛ける前であり,洗濯してばかりである。まだ塵もほこりも付いていない。
     一張羅か二張羅か知らないけれど,汚れを比べたら,こちらの方が綺麗かも知れない。「ふん!」そっちこそ触れるなと心で思う。。

   新宿駅は相変わらず混んでいる。ホームのベンチにザックをおろし,肩に掛け待合ホームに向かう。もう長い列が蛇のよう続いていた。
     こいつらも同じ仲間だ。皆同じ格好をしている。例外的にガヤガヤ騒いでいる若い兄ちゃん,姉ちゃんがいる。
     我々から見れば彼等も変わった山仲間だろう。「オーイー!」,前方で仲間が呼んでいるのが聞こえてきた。


     「峠」2号より,s40,07,企画山行,燕岳へ




        「貨物列車」
                                                                   保坂 洋

   山手線に沿って貨物列車が走っている。そこをこの5年間,学校の行き帰りにただ何とは無しに眺めてた。
     だが東京にも初霜が降り朝夕冷たい風が吹く頃になると,毎年決ってその貨物列車が自分をはっとさせる時がある。


   それは雪だ。あの長い貨物列車の幾つかの貨車の屋根に積った真っ白い雪だ。
     今年見る最初の雪かもしれない。ある時は目白駅で,高田馬場で。又新大久保の駅でそれが通過するのを見る。
     又あるときは,走っている電車の中から追い越して行く,その雪を見る事がある。

   今年も又池袋のホームで,その真新しい雪が運ばれて行くのを見た。
     急ぐ事なく,一定の調子でコトコト音を立てながら自分の間の前を過ぎて行く。

   ある貨車は真っ白い冠を乗せ,又あるものは薄く化粧している。
     トム,ツム,ワキ,タム。。。。と色々な記号が打たれ,チョークで乱暴に字の書いてある貨物列車。

   たかが20センチ程の雪ではあるが,その白さと黒い車体がピッタリと調和している。
     昨夜どこか見知らぬ駅に泊った時に積もった雪だろう。数両の貨車には同じ雪が乗っかり,ある貨車は綺麗な雪を乗せている。

   諸所で集められ,連結されて,どこか見知らぬ所に連れられて行く。
     東北の山奥から来たのだろうか,又は上越の山々をくぐり抜けてやって来たのだろうか,淡々とした様子で動いて行く。

   その雪は決して,あの汗をだらだら流して登る夏山を思い出させはしない。
     高一の時,初めてのスキーに外を見遣っていた夜行列車を思い出させ,又夜中の2時頃どこか知らぬ小さな駅で,
     ホームに積もった雪を踏みながら,蒸気機関車の連結される様子を見ていた自分を思い出させ,
     又十分滑った満足感に浸りながら岐路につく光景を思い出させる。

   初めてツァーの醍醐味を知った五色合宿の事が浮んでくる。
     何にもかも初めての経験だったし,自分の思っていたツァーが,いかに間違っていたかも分かった。

   今までいくら新しい雪が積もったとはいえ,人工的に作られた斜面で,そこから感じるスピード感やリズム感だけに今まで満足していた。
     だからツァーもきっと快適なスピード感ある滑降が出来るとばかり思っていたし,又それだけに捉らわれていた。
     この合宿で本当に自然の中を滑るスキーを経験した。又山の経験,知識,体力が必要なものを痛感した。

   又雪はどうでもならないものであり,いかに恐ろしいものであるか分かったのもこの合宿である。
     静かに横たわっているが雪深い所では,アリ地獄へでも落ちたかのようになる。
     もがいて上へ上へ登っても,なかなか上へ登らしてくれない。すぐ手の届きそうな所なのに・・・・。

   しかも一度狂い出すと高倉山や一切経の帰りに経験したように,
     我々の前に立ちはだかって前途を拒み,山から追い返してしまう。

   だから自然に対して心から接する気持が必要なのだ。この気持で接すれば,山も又怒らないであろう。
     それにしても雪で被われた山々は,どっしりして美しく,何ともいえない曲線を描いている。

   一面が白い世界,一歩一歩踏みしめながら頂上を目指し斜面を切った。
     朝日を浴びキラキラ輝く時も,冷たい風がビンビン頬を打つ時も喜びの方が大きかった。
     何故こんなに雪の世界は素晴らしいのだろう。

   人のまばらなこの一番線,そのベンチに座っていると次ぎから次ぎへといろいろな事が浮んでくる。
     貨車の上にあるこの雪は,あの山肌を覆っている一面の雪ではないが貴重であるかもしれない。
     日の輝くビルの谷間にある雪であるが為に,自分の心に響いてくるのかもしれない。

   来年も又,ハッとする時には,もっと沢山の事が楽しい思い出であるように,これから雪の中を歩きたい。
     雪を乗せた貨物列車は止まる事を知らないかのように,コトコト自分の前を通り過ぎて行った。


     「峠」創刊号より,池袋駅にて,s39年11月
     私感Top



        女子夏合宿,サブとして


   女子一年生にとって夏合宿は新人が初めて合宿に参加する雰囲気で,苦労のしっぱなしだってと思われた。
     女子部員に対する関心が全くなかった僕は,合宿に参加するまで如何でもよい存在であった。
     その故,女子パーティに回されたらしい。

   合宿に参加し初めて,これが女子パーティと云うものかと。驚き,感心する程度しか考えていなかった。
     それが2日,3日と一緒に行動するにつれ,これで良いのかと云う疑惑が増し続けている。

   それは天幕設営,炊事,パッキング,全てに云えた。妙高山を越え,疑惑は増すばかりで,とうとう爆発してしまった。
     それは早川の河原で幕営した夜だった。それまでは全ての行動は我々が動き回っていたことになる。
     我々はお嬢さんのお供に召し使われるような格好だった。

   しかし彼女達を攻めることはできなかった。何も教えを受けず,1人では何一つできない状態に作られていた。
     一日の疲労が激しく泊り場を設けても,自主性がないと説教する訳には,いかなかった。
     彼女達は最下級生であり,云われた事だけをすればよかった。その延長線に今回の合宿があった。

   同じクラブに属しながら女子部員に関して,無知を通してきた僕の愚かさもある。
     しかし,この件が契機となり,僕は僕なりに,山とは別にクラブ活動を学ぶようなる。

   それが,この夏合宿中に起きた。そして後の行動は我々が直接指導し,掛け声を掛け,時間をロスしても,できるだけ彼女達自身で動くよう
     些細な面まで目を配った。

   歪に苦しんでいるのは一年生である。夏合宿と新人養成を十数日の日数を掛け,一緒に行うのだから。
     そして,これらの成果は,先輩保坂嬢の力に寄るところも多い。この山行で最も相応しいリーダーだった。

   リーダーなきリーダー。先輩を批判する気はもうとうない。時には弱者を守り,励ます必要があり,リーダーの判断ミスは自分で補う必要がある。
     これはリーダーとしての絶対条件だと思う。今までは数少ない女子部員をマスコット的に扱ってきた。

   しかし,女子部員も増え,余りにも極端な行動に,押えることができなくなっていた。
     陰の主導権を我が同輩の手中に集めざる得なかった由縁である。如何にリーダーを上手く庇うかも知らされる。

   最後に,今合宿で一番苦しみを負い,又それによく頑張ったのが一年生だろう。彼女達の頑張り抜いた行動こそ,報いなければ。
     我が春ツァーには今年度は参加する女子部員が家形ヒュッテに出向けるよう,12月上旬より準備,研究を推し進めている。

   個人行では数的には前年並だが,より多くの者が参加するようになった。
     そして質的には合宿と変わらぬ程までになり,特殊技術を含む技術山行が多く行われるまでに至っている。

   連盟関係では脱退せねばならぬ状態に陥っているが,クラブの主旨,及び殻に篭もらない為にも継続を求め,我慢のしどころ。
     今年度はオブザーバーとして加盟,他校との交流を企る。

   我々役員一同, リーダーとしてクラブの充実に努力してきたが,企画,運営の難しさを悟らされた。
     振り返ってみて至らなかった点が数多くあったが,反省しクラブを助長していきたいと思っている。

   実際,もう一歩頑張ればと云うことが多くあったと思う。一朝一夕に解決出来ない緒問題,他との交流を含め,
     慎重かつ大胆に,一歩一歩,ハイキングクラブが増々成長するよう歩んでもらいたい。


     部報「峠」4号より,s43年01月ざたに取り上げるようなる。

   次年度はサブからリーダーになる。各々,山に対する姿勢と現在のクラブ感を語り,自分の意見を述べた。
     批判より建設的な考えが話題を引き上げていた。個人よりクラブをと。
     西村先輩から助言, 聞かされていた妥協や馴れ合いを十分とは言えぬも克服できたことが,山行に直接成果をもたらすと思われる。

   又コースにも恵まれていたと云えよう。
     じゃれ合う言葉にも,リーダーは慄然としていた。ただ山中,4泊ではリーダーとして責任時間が短か過ぎていた。

   又,今回はリーダーとして実働以外は,皆の意見を汲み入れている。テントサイドに着くなり,云いたい放題でもある。
     実際,下級生を引き連れては,こうも上手く行くまいが。

   計画的通り実行できなかった蝙蝠岳のピストンは,予備日と考え合わせ深く反省する必要がある。
     コースより,山自体を大事にした為,記録的結果はそぐわなくなる。


     s41年11月,北岳〜塩見岳



        山に向かって
                                                                 三浦俊彦

   前の晩降った雪で山々は一段と白さを増したもようだった。
     重荷に苦しめられながらも,自分達でトレースをつけるという嬉しさから一歩一歩高度をかせがれていた。

   あたり一面の銀世界。時折現れるモミの木の緑が春を告げていた。
     ピッケルを雪面深く突き刺して見上げる空の彼方に,あくまでも美しい山波が連なり,
     目指す山頂から切れ落ちた岩稜が否応なく我々の闘志をかきたてる。


   その晩雪洞を掘ってビバーク。遠くの町の灯りが星の光のよう輝いていたのを覚えている。
     翌朝,抜けるような青空のもと,ひとしきりラッセルを続けると,灘場といわれる岩峰の下に出た。

   そこころの二人は怖いもの知らずであった。いきない真正面の岩に取りつく。それからは必死であった。
     一歩間違えれば空中を飛んでしまう所が幾らもあった。
     左にスパッと切れ落ちた雪壁の上をピッケル1本でトラバースし,氷の張り付いた岩場にホールドを求め,やめくもに歩みを進めた。

   悪場を乗越すと,そこから平凡な斜面が,そして,そのはてには憧れの頂があった。
     アイゼンを硬雪にきしませて雪庇を越えると,頭上には、透き通るような紺碧の空があるだけであった。
     二人は無言で握手をかわす。とうとうやりとげたのだ。


   自分達の力で・・・・・・あれから1年,剣,穂高,谷川の岩稜にも足をのばした。数々の困難も克服したし,貴重な経験もした。
     だが,1年たった今でも,目をつぶると,あの時の山行がホロ苦い思い出となって瞼に浮ぶ。

   一か八かの登攀。そこには困難という言葉はない。それは危険であり無謀である。
     結果として成功したとはいえ,決して満足できる山行ではなかった。

   その意味で私にとってかけがえのない経験となった。山登りというものは,1つ1つ経験をつむ都度に,より慎重になるものだ。
     そして万全の準備をして挑むようなる。


   人は誰もが憧れをもって山に向かう。その憧れとは何だ。圧倒的な岩壁か。アイゼンのツメも入らない氷雪か。
     灼熱の太陽に焼かれた岩場にザイルを伸ばすのもよかろう。列風吹きすさぶ稜線に挑むのも良いであろう。

   肝心なのは,その」時のひたむきの気持である。山に対する真剣な態度である。
     自分にとって満足でき得る山行。それが高度の技術を要するか,要しないかは問題ではない。

   これこそ我々の望んで止まないものであり,一歩でも,それに近ずこうと努力するべきである。
     誰もが全力を尽くす悔いのない山行をしたいと思う時があろう。確実に安全を約束された山行など,ワサビのない刺身同様ではないか。
     そこにわずかの可能性を見出した時,堂々と真正面から,絶対の自信をもって,山に挑戦すべきである。


     「峠」」3号よりs41年冬,  私感Top




        42年度,年間活動報告


   42年度クラブの執行を任された我々は連日の役員会に明け暮れ,次ぎのようにクラブ方針を決定した。
     巾白く登山をし山自体の認識を深めると共に,より一層の和を尊び年間研究題目である「我がクラブに於ける特殊技術」

   (雪上登降,ビバーク,ブッシュ漕ぎ,懸垂,観天望気,)を通し,各々のクラブ活動を遂行する。
     又同時に当クラブの目的であるリーダーと為るべく,各部員を目的に少しでも近ずける意味で色々な企画がなされた。


   実際クラブ活動は新人募集より始められ,本来のハイキング概念から逸脱し誤解を生ぜぬよう活動の宣伝に努める。
     そして新人歓迎ハイクは雨天の中,三浦半島,安人塚で穏やかに行われ,新入部員との親睦を計った。

   入部者の初めての山行と云うべき新人養成合宿は,幕営技術,基礎体力等山行に必要な知識習得を目的に行われた。
     場所は各パーティが独自のコースを踏破すべく,例年の奥秩父を離れ,北八ケ岳で5コースの縦走をなし,集中分散形式を取った。

   続いて二年強化合宿は6月中旬の予定で準備会をスタートするに至ったが,試験の関係で前年度通り7月中旬に,男子南アルプス荒川,赤石,聖,
     更に南下して茶臼岳までの行程で雪上登降,懸垂,雪上登降を含め,過去1年間に習得した技術,知識の総合的力の把握,
     再認識をすべく行われた。女子は上級生3名に部員1人,大樺沢の雪上登降を含め,同南アルプス白峰三山で行われた。

   又1年部員に対しては夏合宿に備えるべく準合宿を設け,長期の合宿を前提に基礎技術,知識及び体力を含む総合的基礎能力習得を目的に,
     盛夏の日差しを受け,男子東北飯豊連峰に於いて,女子は奥秩父西面,甲武信ケ岳までの縦走で行われた。

   二大合宿に1つである夏合宿は,北アルプス5コース,6パーティによる全山縦走を行う。
     連日の準備会,トレーニングを経て8月中旬より男子16日間,女子12日間を費やし行われた。
     期末試験が7月上旬に変更された為,合宿が晩夏に入り,汗を出しての夏山の感激は薄れたが,静かな山旅を味わうことができた。

   一段落して,10月1日,OB親睦会が奥武蔵,正丸峠にて,ジンギスカン料理を囲みながらOB緒先輩を迎え和やかに行われた。

   2年部員を対象にリーダー養成合宿が10月に入り行われる。
     本合宿は2年部員の精神面にポイントが置かれ,所謂実践的総合力を得る事を主に企画,準備会,トレーニングを自ら行い山行に望んだ。
     場所は男子南アルプス北部周辺を,女子は八ケ岳縦走で進められ,当クラブ最大の目的であるリーダーとして本格的に一歩を踏みだした。

   更にこれらに並行して1年部員を対象に秋合宿が,男子はブッシュを求め平ケ岳から尾瀬に抜ける奥利根の藪やまを綴る。
     女子は尾瀬区域で行うに至り無雪期最後の合宿として花を咲かせた。


   学内活動では例年通り慣例の立教祭に参加。
     年間研究題目各種の発表及び夏合宿報告,スライドによる緒合宿の上映,紹介と共に当クラブの理解を求めた。

   立教祭も終わり11月中旬には春合宿に利用すべく家形ヒュッテの修理及びツァーの為の偵察を行い春に備える。
     今夏に家形ヒュッテ取り壊しが県で決定され,後藤氏との共同管理も短期間ではあったが,
     充分山小屋の良さを学び,永続できないのが残念である。

   12月に入り部報「峠」発刊の為,親睦ダンスパーティを立教コモンルームで催し,OB緒先輩と親睦を深めた。
   春合宿の訓練合宿とも云うべき冬合宿は,ここ数年異常暖冬が続き,スキーする事が危ぶまれていたが,
     如何にか合宿直前に間に合い,奥信濃,戸狩と五色に於いて,連日練習に励み最後の合宿を待つばかりに至る。

   当クラブ総決算と云うべき春合宿は,3月下旬より従来通り吾妻連峰東北部に於いて五色温泉で行おうと思っている。
     東大嶺への縦走を含め5パーティでツァー,雪洞,気象等,最後の当クラブに於ける特殊技術を包含した合宿を行い,
     一切経ツァーには今年度は部員全員が出向き,合宿最後の山小屋を利用しようと思って12月上旬より準備,研究を推し進めている。

   個人行では数的には前年並だが,より多くの部員が参加するようになった。
     そして質的には合宿と変わらぬ程までになり,特殊技術を含む技術的な山行も多く行われるようなった。

   連盟関係では脱退せねばならぬ状態に陥ったが,クラブの主旨,及び殻に篭もらない為にも継続を求め,
     今年度はオブザーバーとして加盟,他校との交流を深めている。

   我々役員一同, リーダーとしてクラブの充実に努力してきたが,企画,運営の難しさを悟らされた。
     振り返ってみて至らなかった点が数多くあったと思われるが,反省しクラブを助長していきたいと思っている。

   実際,もう一歩頑張ればと云うことが多かったと思う。一朝一夕に解決出来ない緒問題,他との交流を含め,
     慎重かつ大胆に,一歩一歩,ハイキングクラブが増々成長するよう歩んでもらいたい。


     部報「峠」4号より,s43年01月



        新人養成山域選定に関して


   新たに八ヶ岳を新人養成の候補地に選んでいる。根本的には奥秩父西面,梓川コースの森林開拓にある。
     昨年もかなり奥まで林道が開かれたが,今年に入り国師岳直下の大弛峠まで開通との情報が入ったことも含まれている。

   同じ山域でもコースを別に選べぬ訳ではないが,我々の考える新人養成には2つの意義がある。
     1つは字の如く新人の山生活と体力の鍛錬にあり,他方昇級した部員のリーダー,サブリーダーとしての習得も含まれている。

   一学年進級した部員は当然,我がクラブでは執行部の交代があり,2年生は学ぶ立場と共に新人を教育する立場も含まれている。
     教えることによる学ぶ力も膨らみをもつことになる。

   そして新人養成合宿とその前後山行が一種の交代の繋ぎ目に当たり,新たな年間目標を定めそれに従い,山行を重ねている。
     それ故,これらの事項を考慮するならば,パーティ間の同一コース行動はできるだけ避けるべきだと考える。
     又当然,各パーティ間の技術的,肉体的相違過ぎる行動は基本的には慎まなければならないだろうが。担当的な特殊技術も必要になる。

   これらに該当する山域としてコースが多彩で豊富な残雪を考慮して北八ヶ岳を選びだしている。
     ただ高低差がやや低く,裾野が狭められる欠点がある。ただ多年度の経過を見守る必要性もあると考えた。


     42年03月,八ヶ岳偵察山行




        女子リーダー論


   女子部員はRHCにとって,最近色々と多種多彩な問題事項が掲かげられている。
     現在男子と女子の山に対する技術,体力,特に考え方が著しく異なり,地味な山行からの積み重ねを重視する以外は解決はできないだろう。
     それに導くリーダーが必要となる。正直云えば女子パーテイを1人で指揮できている女子部員は今もいない。

   万一,山行中に行き届かぬ場面にぶつかると女子だけでは不安が募り,如何に対処できるかが問題になる。
     まして合宿ともなると多人数の下級生を,リードしていかねればならず,現段階では男子の補佐が必要だった。
     それ故,女子に関しては身にあった個人山行の方が優先され,低山に先を求めることが道理になっている。

   本来は体力の増強が基本となり,それに伴い精神力と結び付き,山行の経験を増やすことが最短のコースとなるのだが。
     個人的には男子と同様に,先ずリーダーとして自己の体力,判断力を,自分で把握することが最低の条件になる。
     ある程度,山行を重ねてから,どん底のバテる自分の力を悟ることは絶対に必要だった。シゴキではない。

   農大事件以降,シゴキの声をよく聞かれるが,それとはまるっきり違った発想から起きている。自己責任だけでは山行は危険すぎ無理になる。
     団体と個人行動の違いが,連れて行く立場と付く立場。それ故,女子にとって二年強化ほど重要性を帯びた山行はない。


     s42年07月,奥秩父一年女子企画山行後
     私感Top



        夏合宿リーダー後記


   夏合宿は日数も長いだけあり,毎日がバライティーに富んだ有意義ある山行になる。
     前半は食料に耳虫とアクシデントが重なった上,入山行程だったので,烏帽子までに予備日を使い尽くし,後半が苦しくなる。

   稜線に出てしまえばとハッスルしたが後半は前半の影響を諸に受け,特に食糧不足が著しく絡み減らすことはできなった。
     後で響くと分かっていても停滞を取らざる得ず,後半の悪天候が更にる悪循環をもたらしている。

   穂高は食糧さえあれば,もう一日停滞日も残されてをり,踏破できたと思う。早い集中地到着に挙句事のなく,皆初日から頑張ってきた。
     穂高岳は又登れる。早く下山させたかった。僕はこのリーダーだ。自分の欲望を押えられるようなった。誉める人はいないが。

   技術研究としては内蔵ノ助カールで2時間程しか雪上訓練ができなかった。残雪の関係と涸沢が念頭にあった為である。
     又,藪漕ぎは内蔵ノ助ではできなかった為,南沢岳から北に延びる尾根を選び,ビバークは後の山行に譲って改めて,9月下旬行うことにした。


   食糧に関しては最初のアクシデントがかなり損害を受けている。特に間食は1日アメ2つ,カンパン4つなどと云う日が続き,結局,女子とCパーティの援助を
     得なければならなかった。事故は入山日でもあり,買出しも考慮に入れたものの,仲間の落ち度でもあり,如何にか続けられる可能性があった。
     故,続行を決め,初日より食糧の立て直しから行われた。

   それ故,愚痴らしい愚痴も出ず,皆最後まで食魔と戦い,頑張り通してくれている。乞食気味でも頼もしい後輩達だった。
     穂高に踏めなかったとは云え,今となっては充実した合宿を味わうことができた。
     それも良い仲間に恵まれ,共に苦しみを越えてきた故と思っている。

   最後に今山行で一番の失敗は,連絡の不十分さにある。コース中の交差する山小屋にお願いも怠らなかったが
     それでも,山から一度も降りないことが盲点となり,下山せねば分からぬ,在京との連絡も,不徹底になり後の考慮に繋がっている。



     s41年07月,北ア夏合宿V



        主将としての秋合宿


   秋合宿は本来なら個人山行的色彩を強くした合宿であるが,本年度はあえて,その形を打ち破る。
     言葉の理由は簡単である。合宿はあくまでも合宿でり,半強制的でもある。

   それに比べ個人山行は合宿に合わせても,別の独特の形式内容を持っている。
     又,部員全ての者が年に何度か,個人山行として参加する以上,合宿と個人山行とのけじめは付けるべきだと思ふ。

   私達は山に心を惹かれている。それと比べることができない程,私はクラブも愛でるようなった。
     真に2年生になろうとする後輩と苦労を共にし,新しい藪山の世界を知ることはそこを越えてこそ,新入部員を招き受けられよう。
     彼等は,よきサブリーダーに近ずき,充実感を持ち満たされるだろう。

   誰もが予想しなかった藪山を選んでいる。執行部会での反対も分かっていた。資料は殆どない。古い文献があるのみである。
     如何にか周近の山々からの資料を探り,数冊の部分的記載しかなく,殆どが春山の踏破になっていた。
     地元の小屋情報も当てにはならなかった。

   執行部会では反対の割りに,4年生の参加希望が多く大所帯になった。冬山と異なり断る理由もなく,水ポリと行動食,燃料を多く持参した。
     わざわざ水を求め腕力を必要とする,今の季節を選んだ山行。

   僕の発想は,これからにある。1時間に何百mの藪漕ぎを強いられる奥利根源流を歩み,,それから木,1本育たぬ尾瀬の湿原を歩く。
     各々どう思うだろうか? それを考えると私はわくわくした山行を抱いていた。


     s41年10月,s43年02月,吾妻連峰

     私感Top



        42年度年間研究報告「藪漕ぎ」


   藪漕ぎは高度のない日本の山でバライティーに登山する為の必要欠くべからざる技術であり,
     又コースの誤認,或いは悪場の高捲きと云うような時にも,如何してもブッシュの中へ入らなければならぬ場合が往々にして起きてくる。
     このような時,臨機応変に最小限の労力で,最大の安全を維持し行動を推し進める為にも,ブッシュ漕ぎの技術,心得を習得する必要性が要求されていた。

   そこで年間目標である「我がクラブに於ける特殊技術」の一環として,各合宿等で行われた「藪漕ぎ」をここに1つにまとめてみた。


      計画
   藪漕ぎは最初の計画が,その登山の成否を決定する事が多い。
     得られる限り情報,知識を求め慎重に調査して,又出来れば残雪期に入山することにより,肌で概念を掴み山行へ臨むのが望ましい。

   今年度夏合宿,北アルプスでは各方面より資料を集め,意識的に経験するよう計画を立てた。
     特に黒部川東沢遡行に関しては,地元案内人より情報を得たことが,成果にかなり重要な役割を示している。
     又秋合宿は残雪期縦走及び横断の記録を調べ,無積雪期の未知の山,利根川源流の平ケ岳〜尾瀬間で行われた。

   藪漕ぎの対象は地域,高度等によって這松帯,潅木帯,笹藪帯,草付き,森林の下藪,倒木帯等に大別され,
     蜜生度,疎生度,傾斜の緩急度,更にブッシュの背丈等によって多少の行動の変化はみられる。
     共に開かれた登山道とは,かけ離れた労力を費やす高等技術を必要とした。
   
      服装
   服装を上から見詰めていくと帽子はベレーのようなツバなしものが良く,服装は厚着せず,必ず長袖でボタンで留める。
     布地はできればサージ,化繊生地のように滑りよく,生地も比較的強いものが良い。当クラブのユニホーム「コールテン」でもよいが,少し生地が弱く,
     藪では袖のポケットは不要である。手は必ず手袋(軍手など)を着用。スリ傷,カキ傷,防止の為にも素手は禁物になる。
   
   又ニッカはトレンカーに比較して膝の動作には万能であるが,純毛となると摩擦が大きく,上着と同様に化繊生地も方が好ましい。
     しかし夏合宿と秋合宿,更に各々の時期に行われる個人山行などでは時期が異なり,一概に述べる事はできなかっい。
   
   ニッカホースも枝が引っ掛かり易く問題点も多い。夏に北ア南沢岳を詰めた時は枝節が太く最適であったが,秋の尾瀬西面のブッシュでは却ってトレンカーの方が
     望ましいと云う意見もでた。結局,総合すると活動に万能性を臨むならニッカ式の方が良さそうだ。どちらも一長一短でまだ研究の余地が残されている。


      心付け
   行動前,ヤカンなどは外に吊るしたりせず,出来る限りタッシュ等に詰め,衣類のポケットの中のものはザックに入れ換える。
     ザックを含め体全体の抵抗を少なくし,担ぎ位置は腰に乗せるよう下加減する方が,両手が自由に使え上も突っかけなくてよい。

   ザックの締めヒモなだも短くきつく結び,ものを落したり枝に引っ掛けて,心身の消耗を大にしないよう心掛けよう。
     靴ヒモも同様である。行動中靴ヒモが解けないよう休みの時から気を配り,余分な労力の消耗を防ぐ。これらはザックの背負い方を除いて,藪漕ぎには限らず,
     どの山行でも必要。北ア入山の時にはヤカンをこっぴどく打ち付け,茶さえ十分飲めなかった事があった。


      藪漕ぎ
   藪漕ぎは上半身で進路を開き,下半身での移動が基本姿勢,上半身の体重が前に掛かると同時に,下半身がその運動を確保して膝頭から移動する。
     つまり上半身が観察,判断,処理し,下半身は確保,移動,推進の形を取る。藪が股以上に没する所では,両手でブッシュを押し開き,若干の傾斜でも
     手の使う所では,枝を手掛かり足掛かりにして四っん這いの格好になって進む。

   特に枝が絡み合って密生している場合,一番骨が折れ腕力のみになりがちで,長時間続けると疲労が激しくなる。
     上越ススケ峰では休み休み息を整えての登行だった。時にはトラバース気味の所はブッシュが寝ており,無暗に長く求めるべきではない。
     疲れていたら尚更,馴れない者にとって最も嫌な所になろう。上半身は無論ある程度体を曲げ,なるべくブッシュの上に出るようする。

   ササが密生して背丈が低い場合は,膝で押し出すか,掻き分ければ良いが,
     胸以上になると前記同様に,手でササの束を掴みながら平泳ぎの要領で左右に掻き分けて進めなければならなかった。

   朝方の露又は雨などでササが濡れていると,急斜面では滑り易く,足場として根元を踏んで歩くよう心掛ける。
     草付きは藪漕ぎとしては問題ないが,草付きの場合も同様で,雪渓歩きの要領で靴先を草の根上部に蹴り込んで登る。
     急斜面の場合は,手は根元に向け,草が短い時は土の中に指を突っ込むようして,ホールドを造り三点確保でもって登っている。

   森林の下藪は新人養成でどのパーティも少しは行ったと思うが,別に問題として取り上げる余地はかった。
     潅木帯は幹から幹へ足場を移動すれば,疲労が少なくスムーズに進む。尚残雪期,中ア縦走中,足場を失って胸まで没した事を覚えている。
     更に至仏山北面の登りでは,幹と幹の中を潜り抜けるようにして進んだ。この場合,尾根幅が広いと方向を見失われないよう注意を要した。


      現時点の確認
   藪の中で大事な事は現時点の確認であり,云い返ればルートを正確に掴む事で,適当な目標を定め,その短距離を詰める。
     身の丈に余るブッシュで視界がさえぎられ,進路に疑問を抱かせるような場所には,目印にナタ目,枝折り,特に注意の必要地点には赤布を付け,
     必ず進行方向の反対側から見え易い所を選ぶ。

   これはブッシュに限らず積雪期,特に当クラブの場合では春合宿ツァーで,樹氷を潜るにも大きな役目を担っている。
     ツァーには必ず偵察及び赤布,バンガラを携帯するが,使用方法はブッシュの場合も同じだった。

   話しは少し逸れたが,図上測定は希望的観測が多分に混入しがちであり,随時今までの必要要素をよく吟味し現在地を掴むよう心掛ける。
     疑問が解消せず,或いは明らかに間違いである事が分かった時は,附近に大木があれば木登りし,現在地を確認するようにする。
     見定められぬ時は必ず当初の疑問地点に引き返し,改めて進路を開く。


   又ブッシュは出来るだけ避ける事,少なくすむ事を考え,獣道(糞,抜毛あり)は巧く探り当てたならば方向を失わぬ程度に利用する。
     又廃道は崖崩れ,橋は落ち,雑草,潅木に埋もれていても,先は分かれば気苦労だけでも大変軽減できる。
     古いナタ目は過って人が通った跡であると云う事だけで,安易にその中に引き込まれてはならない。

   沢筋の滝,釜,ヘズリは大きいものがない限り,却って行動し易く,夏合宿北ア,ハシゴ段乗越しはジャボジャボ水に入りながらの登りだった。
     ただこの場合ルートファンテングが重視され,ルートの正確さを保持するよう努めなければならない。
     一般的に尾根筋の行動では頂稜を離れないよう気を配り,実際地形的には幅広い山稜上,山腹の登り,尾根筋の下降に迷い易く,特に配慮がいた。

      ルート
   隊の編成は,ブッシュの種類により異なるが,藪漕ぎの経験の多いリーダーを前に立たせ,ラストにサブを置く。
     秋合宿の時には人数が多かった為,偵察1名,その後にトップが付き,体の調子の悪い者を真中に挟んだ。

   上級部員が偵察者,トップ者とピストン形式で交替した。調子の悪い者を真中に置く事はササ藪のような場合,通り過ぎ半分も経たぬうち
     完全に元通りに立ってしまうので,パーティが密着して進めば枝の跳ね返しを防ぎ,バトンタッチ式で枝を流す事ができる。
     足場のササは列の後になるぬつれ歩き易くなる。ただ残雪期の藪トラバースは逆の場合もある。残雪との境で雪が落ちれば曲根が現れる。

   他に行動面で注意する事として,小休止は全員が同じ状態で休める所が望ましく,平坦,鞍部などになるが大部隊になるとそうもいかなくなる。
     バラバラだと体調も掴めずらく,言葉の伝言が続く。仲間が見えねば交信は長くなる。
   
   キャンプサイドにしても時間とブッシュの度合を計算に入れ,少し早めに適当な所を見付けたなら幕営すべきである。
     後になって整地など設営に時間的大きなロスを作って,翌日の行動に差しつかえが起きてかたでは如何しようももない。
   
   
      装備
   他に気を付けなければならないものとして水がある。水を容易に得られないブッシュ帯では,火に劣らず貴重で最高の留意が必要とされる。
     時には秋合宿の如く配給制を引かねばならず,毎日綿密な計算の上で使用では水の担当を決めている。
     池塘など利用する場合,沸騰せずして飲料できるようロ紙を携帯すると便利で,当日は燃料と水用のポリタンを多く持参した。

   団体装備では鋸,鉈は無論だが,鋸は1パーティ1丁鉈は鋭利で頑丈な手慣れたものを多めに勧める。
     医薬品も多めに,又目薬の使用価値は大きい。細かくなるが針金は用途が広く長めに。針と糸も忘れないようにしたい。


      外敵
   潅木帯には毒蛇も棲息しており,蝮は本土で見られる唯一の蛇で,頭は三角頭をなし,容易に識別できるが必ずしも毒蛇とは限らず,又上顎には無毒蛇には
     見られない一対の鋭い毒牙を持っている。蝮は毒蛇としては比較的性質が大人しく,踏んだりしない限り攻撃に出てくる事は少ないが,かなり跳躍して噛む。
     暑い時は湿地に,雨上がりだと日向など石の下や草の陰に多く見られ,隊としては2,3番目の者が襲われる可能性が強い。

   毒蛇に噛まれた症状は歯型が残り,局部に強い痛みと周りは腫れがでて,噛まれてから1人で動けるのは1時間半程。
     視力は落ちるばかりではなく,時には失神する事がある。蝮の毒はあまり強くなく,その為死ぬの稀だが,毒が体に回ると内臓諸器官が出血を起こし,

   死の転機となる事もあるので,危険ながら応急処置が大切になる。まず横に寝かせ保温に注意しながら,傷口から心臓に近い部分を硬く縛り,
     (毎時1,2回緩める)毒の移動を防ぎ,刃物で縦に切り,血液と同時に毒液を出せば良い。

   蝮の毒は飲んでも害はない。傷口から入ると噛まれたと同じ結果が生じるので要注意。又蝮の毒は熱に弱く熱湯や火を擦りつけるのも良いとされている。
     最良の処置として血清があるが,入手は難しく,噛まれてから半日以上経過すれば生命に別状はないとされている。


   外傷は小さな傷の場合を第一に,大きな傷の時は止血を第一とし,充分な消毒を行う。昆虫刺傷による毒は大抵酸性の為,アルカリ性薬品で中和する。
     通常3パーセントのアンモニヤ水を用いるが,石鹸で軽く洗って重曹水の冷湿布を行う。冷水だけでも効果を現す。

   土鉢,熊蜂は刺されるとかなりの発熱がでる。過ってOBの方が夏合宿で刺された時,余りの高熱の為,蜂が原因だとは,さっぱり分からなかったそうだ。
     針が体内に残すので,よく注意してピンセットで取り除き,かゆくても掻かないようにする。

   毒蛾の場合は,分泌液と燐粉が皮膚に炎症を起こすので水で洗い流す。洗った手には液,粉が残っているので目などこすらないよう。
     その他に,曲竹の藪でのダニ。這松藪でのブヨ.夜の蚊などが,ブッシュ帯に多く生存している。


      Cs
   ブッシュと露営の組み合せは荷の軽量化で,行動の機敏化をもたらすが,メンバーの人数如何によっては,幕営の続く山行は後の行動に大きな影響を及ぼす。
     そして却ってビバークはマイナスになる可能性もでてくる。当クラブではブッシュ混ざりの山行や沢登りに,荷を考慮に入れて幕営による山行は少ない。
     その為,現段階ではビバークを体験として知ってもらう為には,合宿中,1回か2回のフォーカストビバーク(峠3号参照)を行っている。

   ブッシュ帯の幕営は一般的に保温には一番適している。コンロを使用しない場合も薪には恵まれるが密度が強過ぎるとコンロの方が利に可なっていた。
     しかし真夏ともなると前記の如く,藪にひそむ昆虫類に1晩中悩まされた末,北ア,白馬の如く睡眠不足を起こし,頭であろうと手であろうと
    肌の出ているところは腫れ上がっていた。

   又潅木地での整地は,時には太い幹を数本切らねばならず,時間浪費の上からも,自然保護の観点からもあまり好ましくない。
     幕営はブヨさえ居なければ,ブッシュ帯では明日への鋭気を養ってくれる所として手軽に造れ,心配する事は天気のみになる。
     ブヨが幾らか多くとも雨より否なものはないであろう。雨の中での居心地は幕営地の選択と装備にかかっている。
   
   
      気象
   後になってしまったが,当クラブでは気象における位置は段々価値の重要性が認められてきているとは云え,まだ全員が把握できるよう努力すべきである。
     特に気象は藪山山行には非常に影響を及ぼす。観天望気の利かぬ藪の中で,頭上の一角を開く空と天気図に頼る意外なく,結局長期予報が
     山行前の重要な役目を占めている。
   
   
   藪漕ぎは1時間に図上直線距離600m前後,1日行程では5〜8k程しか進めず,誰もが居やがるものであるが,
     藪を抜けての小平地は砂漠のオアシスの如く,この上もなく嬉しく快いものだった。ラッセルから岩稜に抜ける気分になる。
     それを味わい遂行するには,パーティ全員のブッシュに対する強い認識が必要だった。
   
   藪漕ぎは,地味だが緊急避難の応用にもなり,その先には未知の領域がひそんでいる。又自然を深く愛する,自然への陶酔かも知れない。
     それらを各々が考える事でチームワーク,パーティシップを深め,鋭い方向感覚を身に付ける事ができよう。


     部報「峠」4号より, 私感Top



        径


   径, それは先從者の踏み跡である。太古から何人もの人々がそこを歩き,一筋の径を築いてきた。
     径は人間の歴史であり,我々の一部分である。

   ハイキングクラブも10年の径を歩んで来た。創立期は鉈目,折り掛けの連続で何と前途多難な事だったろう。
     幾らか踏み跡がはっきりし径らしくなっても,歩みを止めてしまえば径は廃道化する。
     又、自然環境に同化して歩みを定期的にすれば,良くも悪くもならず,昔の間々の径になる。

   慢性的になりがちな昨今の我々は,現実を見詰め,過去を振り返り,
     新しい歩みを二年間という目標の下で示してきた。
     初めての試みで不遇が重なってしまったが,みごと10年間の歩みと絆で乗り切ってきた。

   我々は,径として何も舗装道路を求めている訳でもなく,同じ意図で歩むのでもない。
     ただ,クラブの目標に近づけながら,互いに悩み,苦しみ,共鳴し,時には振り返り,今日を知る。
     そこに心の支えが生まれ,明日の径が開けるだろう。

   藪の径,泥の径,しっかり踏み固められた径,みんな径である。
     混迷し脇に外れぬ様に気を配り,これからもRHCと云う立派な径を築くことを願い,今日も歩む。


     s42年度,部報「峠」扉より



       越後の山


   私が越後の山に登り始めてから,まだ真新しい頃は,殆どが上越国境の峰々,特に谷川岳周辺が多かった。
     純粋なる越後の山を知るようになったのは,つい最近になる。

   藪山,雪山を好む私には,もってこいの場所だった。「人知れず山へ入る。」と云う言葉にぴったりの山々がある。
     それは里の良さもある。東北に足を伸ばさなくとも,その良さに触れ,アルプスに雪塊を求めなくとも,豊富な残雪が残されている。

   越後の山は高度すら低いが,深さに於いてはアルプスにも劣らず,山麓の素朴さについては,今更改めて述べる必要はないほどだった。
     かなり名の知れた魚沼三山を主に,北に目を向ければ,大鳥,未丈ケ岳,浅草岳,守門へと続き,御神楽岳の深い山々がある。

   そして中岳から手をつなぎ荒沢,平ヶ岳の峰々,それは又,上信越国境の峰々へと続く。
     越後の山,今最も知りたい山であり,踏み込みたい山である。

     s43年07月,越後三山



       富士の驚異


   富士山は表日本に位置している為,冬は晴天が続き,北アルプスのような渋い忍耐は必要としない。
     しかし反面,一時の荒天が驚く程の天地異変を引き起こさせている。
     半日の崩れが風雪を呼び,裾野まで包み,その変化は五合目以上は樹林が育たないこともあり,あまりにも甚だしい。

   雪は10cmに満たない積雪であろうと氷化させ,ツァケの引っ掛かりに気を配るのも稀ではなかった。
     この氷化は完全に近く,5m四方のガラス張りの溝のようなものを造り,裾から頂まで組み合わされていく。
     この悪条件の登行はサブの場合,尚更気が気でなかった。体の重みがツァケを引っ掛かけない状況に導いている。

   好天の場合は付きものの突風がある。深い蒼空の下,ピッケルで完全に身を構え,旋風が過ぎるのを待たなければならない。
     変に突っ立っていれば飛ばされる。一昨年,そして今回の風圧も体験すれば驚ろくべき力持っている。

   夕方になると偏西風を富士は両麓に分け,ここ御殿場口の幕営地を襲い,地吹雪を上げ,耳鳴りを連続させていた。
     又西風が山腹を回り込み当たる位置にある為か,風の息は真空状態を造り,冬テンの底シートを浮上がらさせ,天幕内のコンロを浮かす。

   裾野からはジャリを吹き上げている。そして気温は闇と共に零下20度を軽く超した。
     これらの現象は日本では珍しい,森林限界があまりにも低い高山,頂がジェト気流に突き出している為だろう。

   この富士山こそ,凄みがあり,近くてよい山も珍しい。
     登頂の為,一歩々踏み出す足には変化に乏しいが,確実に高度を稼げていた。
     海原を仰ぎ,原野を望み,果てしない蒼空は山への憧れを更に膨らましている。


     s44年正月,御殿場五合目



       絆


    頑固たる信念と,それに結び付く行動を
    自分自身に衝っけ
           求め得た時,
    一つの些細な確信は,自信として導かれ,
    己の心を動かす。
    そして
       無言の伝言は,相棒に感じさせ,
    心と心の会話が,
       自然を超越した
           強い絆として結ばれる。




       ハイキングクラブ創立10周年を祝う

                                                         学生部,甲籐善彦


   ハイキングクラブが創立されてから,早くも10年を迎えるという。
     小生もいつまでも若い気でいると,大変なことになるとつくづく感じながら,月日の流れの急テンポなのに驚いている。

   創設者の一人であるK君が,童顔をほころばせながら,(ハイキングクラブを創りたいのですが・・・・・・」と,
     学生部の窓口を訪れたのが,つい何ケ月前のような気がする。

   しかし,考えてみると確かに色々なことがあったものだ。
     新人トレーニングキャンプで,重い荷物をしょいすぎて? 腕が麻痺してしまった学生の父兄からおしかりを受けたり,
   帰ってくる筈の日に冬山から帰ってこないパーティがあったり,遭難対策本部をあわててつくったり,
     クラブ内の対人関係にヒビが入りそうになったり・・・・・・・。

   その度に小生もハラハラしながらお付き合いしてきた訳であるが,小生の心をとらえて離さないのは,部員諸君の「友情」である。
     危険に直面した時、互いに信頼しながら友人としてどこまで関り会うことができるか?
     という問題が,小生の人生においても重要な課題の1つであるが,ハイキングクラブの部員諸君は,それを山で共に培った「友情」で立派に乗り越えている。

   ハタでみていても,地味ではあるが良いクラブであると思えるのは,この「友情」の賜物であろう。
     小生も何らかの形でお役にたてればたちたいと思うが,今後もクラブの良い伝統を尊重しながら,
     益々クラブが発展することを期待しつつ,ハイキングクラブの創立10周年を心より祝したい次第である。


     部報「峠」5号より,s44,04,08, 



       山へのアプローチ


   私にとって山へのアプロ-チほど大切なものはない。アプローチ如何によって山の良し悪しが決まるからである。
     山の奥深く谷を縫い乗合バスに揺られ,山の懐に直接入ってしまう山行は,交通の便はよいが山のよさが半減してしまう恐れがある。

   私の山へのアプローチの選択は第一に山里からの入山に看る。
     森閑とした境内を横切り,小川の瀬々らぎと語い,素朴な村人と接すると山への登行意欲は人知れず掻き揚げられる。
     又このような条件を備える不便を強いる山里には,登山者も少なく,静かな旅情を味わえられる。

   ただ,欠点はアプローチが長過ぎること。それ故,交通機関も不便で,日に2,3便しかなく,それが却って良さを導いているのかも知れない。
     今のレクレーションブームは観光網を広げ,林道を通し,誰でも行けるを合言葉に,自然を少しずつ壊し始めている。
     一気に高原へ山へと林道を開き,山は雑踏化が進み,1つしかない山の湯は「秘境の湯」と名乗る観光化が進んでいる。


   このような環境の下,下町生まれのせいか,一層山へのアプローチを大切にするようなった。
     藪山を好むのも,その1つの現れかも知れない。

   径なき径を自分に任せ,無我夢中に頂へ立つ感激はひとしをである。私が沢登を始めたのも,初めはこの理由によりところが多い。
     他人から見れば,1日行程で登れる頂へ,2日,3日と費やし,頂に立つのは馬鹿らしく思われるかも知れない。
     自然,特に山を愛でる者にしか分からない特権のようなものが次第に薄れてきている。それ故,自然と人の少ない,より径らしくない径に足が向くようなった。

   路線バスはまだ路肩に残雪を残し,早春で閉ざされている。そこを踏みしめ山里に入る。村人は人懐かしく会話に応じてくれていた。
     山を下りてからの会話もその一言,二言が嬉しかった。春山が好きなのもそれ故だろう。山道は残雪に埋もれ,自らルートを築き,詰める岳。
     それに加え春は陽日に照らされ,大地は踊り,硬く実を守っている木々は,新芽と共に清々しい若葉に萌える。


   アプローチとして下山も同じである。登頂の歓びを一層印象付けるのは下山路に掛かっている。
     そして頂を途中で断念せざる得なくなった時,慰めと共に,再びの登行意欲を掻き立ててくれるのも,下りのアプローチに掛かっている。

   特に下山の都会への継ぎ渡しとしてのアプローチは程ほどの麓までの高度や距離が必要だった。小川の瀬々らぎや山里とその人々にある。
     話の半分も分からぬ方言は一層親しみも加え,裸の会話に口数少ない中に,言いようのない程の愛着が含まれている。

   この素朴な言葉の交じり合わせこそ,私の心を留ませるものはない。囲炉裏を囲み煙にむせび,山里を離れるのである。
     田圃の穂にも心は動く。四季相応の畔道は私の心を包み,豊かな情緒を抱かせている。山の凱歌に歓びながら里道をトコトコ歩むのは素晴らしいことだ。

   雨が降ろうと曇天であろうと,それは山と競合したシンフォニーのようだった。
     暇のなくなった現在,山へのアプローチは短く,それ故安易になるのは事実である。学生の時が羨ましくも思える。
     これからは野原だけでも歩こうか。

     剣岳早月尾根を終え,s44,07,11,

     私感Top



       沢登りと日本人


   日本は山国であり,山のことなしで日本と云う国を考える事はできない。又,日本人の心も同じである。
     それ故,レクレイションとして,スポーツとして,これほど登山人口を多く持つ国は他にもまれだろう。

   山の高さから云え,4000mを越える山は我が国では皆無である。
     それ故,四季を通し,山に好奇心を抱き,心を注ぐ登山者にとって,沢は我国の登山にとって重要な意味を持たらしていた。

   沢は尾根とは違った面を幾つも持ち,より立体的に山を知り,自然の深みに触れることができる。
     美渓は又,稜線の眺望とは,全く違った喜びを与え,入渓した人の心に新たな好奇を導き,登山形態は尾根から沢,岩場へと移されてゆく。

   渓相は視野的には,如何なる大きな河川持っても,平地,高地より狭い。ただその狭い谷間は四季それぞれに,自然の美しさを十二分に現わしている。
     この憧れと親しみを現す渓相は太古から住み着いた日本人の心の底に持ってきた静の界であり,心の拠り所であった。
     箱庭的情緒の強い故人は種々の庭園を家に構え,日本人の伝統として今日に伝えてきた。沢と沢登りは,その一面を十分に含む山登りになる。


     s44年06月,奥秩父,小常木谷遡行



       憧れの絆


   山岳に対する実動観念は,山に対する認識の深まるにつれ,幾度となく動揺し,基盤に覆い被さる藷意識は,更に複雑多様化をもたらした。
     私が生まれて初めて山と云う観念で登ったのが,奥武蔵,伊豆ケ岳と武川岳だった。
     そして自分で歩くという喜びは,那須,丹沢へと足を伸ばさせ,何処でも山と名付く所ならば良い時代だった。

   それが八ケ岳,千丈と山への山域の輪を広げるにつれ,日帰り山行に物足りない何かが生まれ,大学入学と共にRHCに飛び込んだ。
     この件が最終的には,私を長年惹かされていた海から離させ,山へと導き始めた所以でだろう。

   入部の動機を思い出して看ると,四丁目出店に置かれていた剣岳,長次郎雪渓の写真に人目惚れした為のようだ。
     鋭い岩峰と盛夏のサンサンと照り付ける陽光,それにも負けぬ大雪渓に目を奪れ,かなり心を踊らされたようだった。

   一年間の基礎訓練は実の知らぬことが多かった。それ故,数多くの山行に参加すると共に,個人山行にも幾度となく足を踏み入れていた。
     そして山以前の問題として,各山行毎に内面的な提議を立て,一つ一つ解決させてきている。

   ことに後半は技術面の修得まで伸びた。内心的不安な気持を乗り越え,己自身(精神的,肉体的限界の認識)を得たのは,夏合宿前後だった。
     それまで我武者羅に山行を重ね,年間山行回数も急カーブを描き続けていた。

   2年,後半期は山より仲間達に考慮し始めた時期である。その為か,パーティ行動に関する知識も少しずつ,私の中に膨らみだしている。
     それでも山は,まだ私にとって未知の世界に過ぎず。この過程では,まだ二の次ぎの感が強く占めていた。

   新年を迎え,執行部に席を移すと共に,山へのアプローチに重点を置くようなった。それは異常な程,急激だった。
     登山行動意識の大きな岐路ともいえる時期になる。

   前段階までの全てが,これからの為の地盤であり,クラブ執行に関してもプラスになることは間違いなかった。
     質素,森閑,素朴,純自然,私の愛い惹かれる言葉である。山に惹かれ,その媒介に惹かれ,山を楽しみ,山でも楽しむ。
     この定義は現在に至るも,些細な面まで目を向けるなら,尚強く意識,無意識をとわず,現れている。私の実動観念だった。


   その為,ある程度,限られた山々,中高山帯に入るには小国の故,又,レジャーブームの故もあり,山へのアプローチが一層,重要な役割を占めている。
     アプローチにより,自分の持つイメージは,今まで以上に山の豊かさを感じ,心の拠り所になっている。

   アプローチとして前山,田園,開拓部落,軌道,牧場,赤字路線,地元の人との接触,全てが山への憧れを満足させる素材になった。
     憧れを補うものではなく,これが本来の山である。私はそう思っている。

   「車から降りたら山だった。」は,マスコミ・レジャーの言葉に過ぎない。
     4年となり学生時代も数少なくなると,更にこの念は深まり,脳裏に焼く付いたようだ。

   例えば,どちらかと云うと富士,乗鞍,御岳の夏山は,頭から登る対象からは遠のいている。
     夏の暴風に逆らい登るのと異なり,ゾロゾロ人の後に続き登り,頂は人で溢れるような所は,私の山とは違っていた。

   そこは都会での移動に過ぎない。それでも眺望は変らぬと答える人もいるだろう。私には外感,内感は一つの歯車であり,片方だけでは空回してしまう。
     憧れは踏みにじられ,このロスは更にドン底へと尽きることなく,私を落とし続けるだろう。


   そのような山界なら,私の条件に適う,シーズンオフに向かうか,山麓だけでも歩きたい気持を持ち続けている。
     この哀愁は現役1年の時から芽ばえ始めていた。特に2年の東北合宿は,この芽ばえを着実に植え付けている。
     天然風呂に浸かり,農家でヤギの乳を分けて貰い,今にも崩れるのではないかと思われる神社で下山の喜びを味わった日々,そこには素朴な風情が伺える。

   鳥海山で下山の折,径を失い,冬師部落に出て,雨宿りさせて頂いた農家も忘れられない思い出となった。
     そして山スキーの醍醐味は最高にまで高められたと思う。清水部落では村八分の哀しさを聞かされ,熊の肉を御馳走になっている。
     静かな山の湯,芦安,駒ケ根,夏油,五色。鹿塩,谷川,奈良田,

   幾らかだけでも安くさせようと車掌,運転手に談判し,役場,新聞屋に駈け回り,宿賃を半分に値切った事さえある。
     人知れぬ人と気軽に挨拶を交わす農夫,半分も分からぬ東北弁,開拓部落,ゴーストタウン,そしてオンボロバスの乗り心地,
     シーズンオフの山小屋の主との話も面白い。

   それに加え山中のエピソードは更に山を楽しいものにさせ,珍事が山を更に深め,醍醐味を与えてくれることも暫しある。
     これら放浪的な素材を透して,望む頂稜は焦探するが如く,心を掻き立て,自然と入山の準備をも積み重れてきた。


   アプローチを選ぶじょとにより,素顔の山懐に触れ,荒れた山道に,汗を掻く姿は,無尽蔵の豊な心を起こさせている。
     山の絆,それはアプローチと云う響きよい言葉を持っている。

   私の学生時代の1つの過程がここに描かれている。
     「友を愛し,山と語る。」この単純な言葉を掴むにも,より真剣なまざなしを持ち,如何に憧れを追求し,楽しむかを考える時,
     今までの憧れへの絆が私の前に姿を現した。


     「峠」第6号」より,s44,09,01,



       槍の径


    寂しがりやなのに
     あの人は
    タンネの森に踏み跡を残し
            奥へと入って行く
    ゆっくりした足とりで
            岩苔の湿る漂いの中を
    華やかに紅葉したモミジ
    今日の明け方で
       頂は新雪が降り注いだだろう
    何か寂しそうな後姿にも
     あの人は
    今年最後の峰へと
                         s43年鈴木

     参加者,L松村,m見城,鈴木,
     本文は松村の山行日記,校正は鈴木,田中,

     2009年08月,赤牛岳,読売新道
     部報「峠」18号



       藪山と青梅街道


   藪漕ぎにはまだ早い時期だが大菩薩嶺北尾根に入り,泉水横手山林道から青梅街道へ。
     ミズナラ,ツガ,ブナの絡み合う樹海,その下枝を両手で掴み掴み這い下り,街道にでて来たばかりだった。
     秋の連休を如何過ごすか考えた末,今年は1人で大菩薩嶺連嶺へ入ることにした。今年に入り東丹沢末端の鍋嵐周辺の藪を幾度か歩んでいる。

   4年前の8月,田中先輩(s41卒)と石川君(h元年卒)に立教学院八ヶ岳環境ボランティア登山に誘われ,15年振りに登山靴を履く。
     ⊂分程燃え尽きるも,薪を加える必要はなかった。交代に現れては去って行く。  

   黄昏から帳が落ちると又,違った雰囲気がをかもちだしていた。
     ゆっくり炎を見詰め,薪を加え,星座を仰ぎ,今日一日を語い会う。
     焦ることもなく茹で出したナベを見詰め,ゆっくり時間が流れて行く。

   1泊2日で,下山まで火の落ちることはなかった。
     それだけ自由に飲みたい物を飲み,間食も自由に。主食は全員で揃い摂っている。

      道具
   ライターは小学生二年になると全員に与え,その1年後には鉈も持たす。本物の鉈である。
     子供には重すぎるが,足に落さぬよう気を使っていれば,それなりになる。

   当然,薪も最初の1束のみ購入,後は全て皆で探し集めている。
     面白いことに薪枝では直ぐ燃え尽きる。故,子供達は太い物を求め,最後には丸太の倒木を引いてきた。当然,鉈,鋸が活躍すた。

   奥多摩の時は,生木で6食,2日間,火種を落さず半分残されていた。
     それも時間を掛け,子供達で引きずってくる。最後には私と顔が会い,運ぶ手伝いを頼まれた。


      凄い子供がいた。
   末っ子が少し分かりだした。山中湖から帰り,自宅の屋根裏で好奇心が湧き,ライターで火遊びを始めた。
     まだ,末っ子にはライターを持たしていない。我慢し,後半年待てと。小学二年生,もう直ぐ二年生になる。ライターを与えると。

   我が家では二年になると自然に向う時だけは,大人と同じ物を与えている。これが我が家のルールになっている。
     俊雄は,はっきり応え,頷いた。


     山中湖キャンプ,s62年08月



        5月の山
                                                      田沼栄一

   一年をつうじて,いつが一番好きかとき聞かれれば,ためらう事なく,5月と答える。
     5月の風,空,そして,北アルプスや上越の山々。それから東北の,たとえば,飯豊連峰。

   5月の良く晴れた日に,そうした山へでかけると,紺碧の空を背に,
     まだ真白い雪を豊富に残した頂と山稜とを山里から望むことができるであろう。

   山里には,鯉のぼりが風の中を高く泳ぎ,緑鮮やかな樹々の中に,
     遅咲きの山桜が,一本だけ,満開の花をつけて,ぽっんとあったりする。

   そうした山里は大体が過疎のため,若い人を見るのは稀で,ひっそりした中に,カラカラと鯉のぼりが泳ぎ,
     痛いほどの5月の光があたりに満ちている。風がふくと,桜の花びらが舞う。

   伸びやかな明るさ,時間の止まったような静けさに夜行の疲れも伴ってか,けだるさが身体を包む。
     今日は一日,ここに居てこのまま,ぼんやりと山と花と樹々の揺れるのを見て過ごしたいと思う。
     しかし,夏を思わせる太陽が高くなるにつれ,遠雷のような音が響く。

   山々の谷を埋めていた残雪が雪崩落ちたのだろう。
     あるいは,固くしまった稜線の雪庇が,ブロック雪崩となって落ちたのかもしれない。

   腹に響く音が去った後に、また静寂が戻ると、懐かしい緊張感がよみかえってくる。
     そろそろ思いザックを背負って乾いた道を歩き出す時だ。

   翌朝,早く僕達は行動を開始する。高度を増すほどに雪は増え,尾根も谷もまだ残雪でいっぱいだ。
     しかし,5月の光は残雪に乱反射しむきだしの腕や、顔は日焼けを始める。
   
   夏であれば道にそってたどる所も雪に覆われていれば,自由に登路とできる。
     沢から一気に稜線に突き上げることも雪があれば可能になる。
     雪崩もこの頃は,個所が決ってくるから,冬の新雪雪崩のようにどこに危険があるのかわかりずらいこともない。
   
   陽も長く,行動時間も余裕がもてる。アイゼンなしで,キックステップでどんどんと高度を稼げる爽快さ。
     天気さえよければ,夏山よりも快適なのが嬉しい。頂からの帰路はピッケル一本でグリセードで滑り降りる事もできる。
     スキーはからきし下手なくせに,グリセードでなら,クリスチャニアもできるのはどうしてだろうか。

   まだ太陽があるうちにテント場にもどったら,早速,紅茶でも沸かして,
     連なり山々を眺めながら呑むと,その甘さが疲れた身体にしみわたる。狙った頂には,登ってしまった。
     ささやかな充実感と,ひとつの憧れが終わってしまったという喪失感。
   
   しかし,尾根を越えてほうほうと吹き渡る風に身をおいていると,例えもない充実感に浸っている自分に気ずく。
     至福の一時とは,正しくこういう時なのだろうか・・・。

   もう昔のように,風雪の中を胸まで没するラッセルにあげきながらという激しい登山は望むべくもないが,
     こうした山行奈良,まだしばらくできるだろう。
     考えてみれば,切羽ったような登山を繰り返し,結局,心から山を楽しんだ想い出はなかったのではないだろうか・・・。

   セーターを着込み,少し遅くまで起きていて,月と星とを見ていよう。明朝は,ここから下るだけなのだから・・・・。
     明日,山を下った。あの山里で,白いコブシの花が,僕達を黙って迎えてくれるだろう。
   
   そして,振り返って見たコブシの花が,僕達の山々が,婚色の空に白く輝き,もう遠くに見えるだろう。
     僕は5月の山が好きだ。

  


       43年度卒同期会山行・・・尾瀬沼周遊


   毎年暮れの忘年会と合わせて行われていた同期会が,今年は春に池袋西口で行われた。(同期6名中5名参加)
     その席で総会を前に50周年記念山行が企画され尾瀬となる。魚沼八海山,那須岳,武蔵日和田山に続き4回目の山行になった。
   
   尾瀬は同期生全員が合宿,個人山行で,一度は足を踏み込んだ山域だった。
     現役3年の秋合宿では藪山,平ケ岳から尾瀬沼へ抜け,関東ハイキング連盟にも暫し参加,尾瀬の清掃を行っていた。
   
   桧枝岐へは現地集合とし宇都宮から大川のマイカーで3名が入り,松村は先に会津駒を登り桧枝岐で合流。
     仲間と山で会うのも格別だった。温泉の柔らかい湯に浸かり都会とは又違った味わいで,翌日を迎え尾瀬沼を散策する。

   前日降り続いた雨も治まり正に盛夏の尾瀬。夏草と一色に染まった青空。遠くに白雲を望んだ積雲は更に白さを増幅させ大きく膨張させていた。
     足元には満開のニッコウキスゲが被う湿原で遊ぶ。

     参加者、大川,鈴木,田沼,松村,




     尾瀬の風
                                                      S43年度卒 田沼

   「山に行きませんか?」
   6月の或る日 Oより同期の仲間に一通のメールが届いた。
   7月に桧枝岐に一泊し 翌日 尾瀬を歩くという。

   
   経営者として忙しい仕事の合間にはずっと山に登り続けている。
   宇都宮に在住の彼は とりわけ那須や尾瀬の山々を四季折々 さまざまなルートから登っていて詳しい。
   その彼が 僕のように山から離れてしまっている者でも参加し易い計画を立て、声をかけてくれたのだ。
   喜んで参加すると返信した。

   僕たちの同期は6名だが今回はMとSが参加し4名での同期会山行となった。
   そのMとSも最近 精力的に山に登っている。例えば 槍ヶ岳から穂高連峰、飯豊連峰
   そして鳥甲山 等々・・。
   一方、僕は8年前の秋 突然 病気で入院し その後も長い療養生活を余儀なくされ山に登れなくなった。
   その年の5月RHCの先輩Tさんと一緒に登った残雪の奥穂高岳が最後の山行となった。

   しかし 山はいつも心にあった。


   尾瀬行きの当日、Oは親切にも宇都宮駅まで車で迎えにきてくれSと僕を桧枝岐村まで乗せてくれるという。
   Mは前夜の夜行バスで桧枝岐に入り独りで早朝から会津駒へ登ってから僕らと合流することになった。
   車が山道を曲がりながら登っていくと時折 激しく雨が降った。

   すると誰かが「Mは大丈夫かな?」とつぶやきすぐに「Mなら大丈夫だ」と皆でうなずくことが何度か繰り返されやがて皆で笑った。
   Mとは現役時代も卒業してからも一緒に何度も山に登ったが弱音を吐いたこともまして疲れた姿をみせたこともただの一度もない。
   タフで頼りになる男だ。

   午後の比較的 早い持間に宿につくとMから連絡が入りキリンテまで迎えに行った。
   彼は夜行バスの為ほとんど寝てないのに雨の中 会津岳から中門岳まで脚を伸ばしキリンテに下山してきて僕たちと再会した。
   予想どおり全く疲れをみせずいつもの笑顔だった。

     2009年7月19〜20日,会津駒と尾瀬沼
     部報「峠」18号




     「青空と風雨に打たれた読売新道」

   今回の企画は昭和42年08月の夏合宿に遡る。我々が執行部となり北アルプス全山縦走を行った。
     途中下山せず5パーティ,17日間の山行。その現地連絡所にお願いしたのが雲ノ平脇,「水晶小屋」だった。小さな木造の可愛い小屋だった。
     今回は見城先輩(s41年卒)にも参加をお願いし,新穂高(当時の夏合宿集中地)より雲ノ平を縦断する形で読売新道を下る。

   昔は山へのアプローチは新穂高より高山経由で東海道豊橋にでているが,今回はバスで平湯経由で入れるようなった。
     山小屋は皆,新たに建て直され,アプローチも便利になるが,山は昔のままの厳しい顔で迎えてくれていた。
                                                               s43年卒松村,鈴木,


   私(鈴木)は4年前の平成18年4月に定年を迎えた。長年の地方勤務からは開放され,同期の連中にその旨伝える。
     動機はありがたいもの,早速大川の音頭で,「那須岳山行」の実施となった。男子5名が30年振りの登山,温泉,勿論その後大宴会に。

   翌19年の夏, 松村,大川と3人で北アルプスにアタック。秋雨前線の影響で苦しい山行だったが,仲間のサポートを得て,やり遂げることが出来た。
     仲間に感謝,そして大いに満足。(上高地一槍沢一天狗池一南岳一キレット一奥穂高岳一岳沢一上高地,3泊4日)

   咲く08年の夏には飯豊山石転び沢に挑戦。今回のメンバーは見城先輩,松村そして私の3名。
     私にとって挑戦するには余りにも大き過ぎる標的であった。

   しかし,仲間からの誘い,今ならまだ登れるという体力と行けると気に入っておこうという自分の気持が交差錯したが,
     到底一人では登れない東北の山々,思い切って参加に決定。そして結果オーライ。そのスケールの大きさに感嘆,花々の美しさにも感激,
     そして苦しさに耐えてくれた自分の体に感謝。
     (天狗平一石転び沢雪渓一梅花皮小屋⇔北股岳,一御西小屋⇔大日岳,一飯豊本山一三国山岳,3泊4日)

   そして,この数年夏山行の行事となった今夏は冒頭のとおりRHC50周年企画「懐かしの北アルプスと新たな挑戦読売新道」となった次第です。

     参加者,L松村,m見城,鈴木,
     本文は松村の山行日記,校正は鈴木,田中,

     2009年08月,赤牛岳,読売新道
     部報「峠」18号




       藪山と青梅街道

   藪漕ぎにはまだ早い時期だが大菩薩嶺北尾根に入り,泉水横手山林道から青梅街道へ。
     ミズナラ,ツガ,ブナの絡み合う樹海,その下枝を両手で掴み,時には不自然な形で這い下り,街道にでて来たばかりだった。
     秋の連休を如何過ごすか考えた末,今年は単独で大菩薩嶺連嶺へ入ることにした。今年に入り東丹沢末端の鍋嵐周辺の藪を何度か歩んでいる。

   4年前の8月,田中先輩(s41卒)と石川君(h元年卒)に立教学院八ヶ岳環境ボランティア登山に誘われ,15年振りに登山靴を履いている。
     バテにバテだqった八ヶ岳赤岳, その頂の清掃がRHC,OBに定められていた。

   汗を掻き喘ぐ登りに岳を望み,昔を想い,バテて萎んだ気持を膨らませて頂に立った。そして体は動かなくなるも,再び山への哀愁に引き込まさせるようなる。
     岩や沢登りはもう無理, 山径を歩むことになる。そして一昨年の奥多摩笹尾根の縦走が藪山を顧みさせ,求めるようなった。

   GPSはあるものの地図と磁石だけで藪山に挑む。自ら探るルートに悦びを五感で感ずる山歩きに導きだされている。
     ルートを決め目指し,迷えば再び己の径を探る。藪漕ぎに迷い,日没近くなるとよく落ち込んだ。

   その折は現役3年執行部の時役員会の反対を押し切り,縦走した秋合宿,藪の奥利根源流の山並を想い出していた。
     藪山は秋にしか出掛けられぬ独特の山だった。それが閉ざさせれば残雪期しかない。時には藪漕ぎはラッセルの如き時間をも要していた。

   見えぬルートを探る山。地図に赤線が描かれることに,再び惹かれ心を持ちだしていた。
     今,低山とは言え東京近郊にも多くの藪山がある。踏み込まぬ尾根,そこを今歩き始めている。

   北尾根末端で最後に迷いながら山を下り,8kの林道,街道を歩む。帳が落ち始めていた。丹波発最終バスに間に合うだろうか?
     ヒッチハイクを試みるも停まってくれる車はなかった。5分乗せて頂ければ悠に間に合うが,トラック類はこの時間帯に1台も通過せず。
     早足で黙々歩むのみ。この青梅街道は昔凸凹で荒れた裸土の時代に,2度程往復していた。


   s42年8月大常木谷遡行の折は一日中雨に叩かれ,三条橋先の道路脇で野宿している。夏合宿を終え内海君(s44卒)とザイルを組んだ。
     この年から青梅街道は日曜,祭日を除く偶数日に氷川(現在のjr奥多摩)から塩山までバスが運行するようなったが,残念ながら日が違い合わなかった。
     その後暫く路線バスは続くがマイカー時代と共に廃線になっている。当時は途中でトラックに便乗するも落石多く,排除するのを手伝い苦労させられている。

   s44年8月の小常木谷は岩岳尾根を下った折は21時を回り,渡渉後に夜道の街道を歩かされた。
     剣岳池ノ谷を目指した準備山行だったと思う。見城先輩(s42卒)と当時の主将山田君(s44卒)が参加した。
     氷川から最終列車が三鷹止まりで,山田邸にお世話になり,その間々出社した覚えがある。

   昨年4月には両神山の帰り,「ほったらかし温泉」に寄り,マイカーでこの街道を通っている。
     最近よく山を共にする見城先輩,滝島先輩(s42卒)と同期鈴木とである。柳沢峠を越えた所で街道の拡張工事が行われていた。

   災害時等に対応できるよう広い隧道,橋梁が直線に近い角度で新たな街道として造られていた。
     江戸城築城のため石灰運搬する道路として整備された青梅街道は今もどんどん進化していた。


   街道に新しく築かれた2つの隧道を潜り,余慶橋にでる。綺麗に舗装された街道。
     小常木谷出合の側壁は岩が崩れぬよう全てが防護棚で被われていた。河川の為か,国道の為か驚かされる風景が続いている。

   思いの外,早く丹波に着く。もう帳は落ち,日が暮れる。走る車はライトを照らし,如何にかエレキを使わずして,丹波バス発着所に着いている。
     発着所は40年前と全く変わっていなかった。大きな箱の家,その中にゆったりとバスが1台入る。
     錆と言うか古い大きな鍛冶屋のようで朽されたトタンの建物,大分年季が入っている。通り掛かった婦人に尋ねると嫁ぎ,当時のことは判らぬとのこと。

   後でバスの運転手に聞くと,今は壊されているが2階に寮があり,車庫の奥にトイレがあった。今も車庫内奥にトイレが改良されている。
     そして今では車庫としての活用はなくなり,先でUターンする,バス停だけになっていた。

   発着所前には街路灯の明かるさはあるものの,街道沿いの軒下の明かりは乏しい。
     人通りはなく,往来する車も日没と共に消え,ライトの光も乏しくなる。バス停前の店先の灯も消え真暗闇になった。

   4軒先の酒屋でビールを仕入れる頃には日はとっぷり暮れた。先程の婦人,若奥さんがバスが出るか心配して来て下さった。
     手には大きな饅頭を持っている。ここで作られ販売されていると言う。「どうぞ!」の言葉に礼を述べ,私だけが乗る乗合バスでビールと共に乾杯した。


   今回は猪と2回遭遇し緊張する場面が最後にあったが,終えてみれば人の情の深さに触れ,充実した心温まる山行になった。
     仲間に誘われ再び山に入るようなった私が,藪漕ぎのために今さら街道を歩むとは,つい最近まで思ってもいなかった。
     バスに揺られているとふと,今年の初めまで集中して登り続けた東丹沢末端の藪山の,集大成を成し遂げたようにも思われた。


     2009年09月20日,大菩薩嶺北尾根
     2016年09月10日,小菅川左岸中腹道,前後・・「小菅の湯と松姫峠」を中心に青梅街道沿いのjr奥多摩駅,上野原駅,大月駅発の路線バスが繋がる。
     部報「峠」18号





     部報「峠」19号に剱岳北方稜線報告の記載委託を受け
   2013年梅雨末期の剱岳北方稜線報告・・・猫又山を断念,馬場島bcから大猫山ピストン



     信越道を抜け北陸道に入り,昼食を摂ろうと滑川の「ほたるいかミュージアム」に寄る。この時期,観光客目当ての賑やかさは欠けていた。
   猛暑の中,この寂しさは平日と云うことだけではなさそうだ。裏側に回ると堤防にぶち当たり,日本海の海岸線にでる。
   陽射しは強いが薄く灰色に滲む空が海原を覆っていた。白雲が湧き,眩く煌めく真夏の地平線は望めないでいる。

     凪の海,砂浜の明るさに控え,海面までもが淀んでいる。見城先輩を頭に滝島先輩と同期鈴木に私が並び,この鉛のような海原を望んでいる。
   四季を通し山行を共にしている仲間達, 今回は地元滑川町に住む,年齢的には私と一回り違う後輩加波君も加わることになった。

     まだ梅雨明けを待つ北陸,東北地方は日本海にある梅雨前線を境にして,大陸の湿舌と太平洋高気圧に挟まれていた。
   刺激を受けた前線が各地に局地的なゲリラ豪雨をもたらしていた。気象庁泣かせの天候は更にPポイントを狂わしている。
   明日はここ海抜0mから馬場島にベースキャンプを設け,北方稜線猫又山に挑む。その日さえ,天気が持ち堪えてくればよいが?


     45年前,早月尾根から長次郎谷を下っている。その馬場島までのルートを車は走る。早月川沿いにあった伊折の集落は廃村になっていた。
   「上市町ふるさとメール」によると戦後50戸あったと云う家屋は全てが集団移転され,車窓から廃屋を探すも全く姿,形を見付けることはできなかった。
   人だけでなく全てが失われていた。林道だけが残り,別次元に入ってしまったようだった。

     伊折の集落は厳しい冬期の暮らしを避けるため移転したと思われる。時の流れとともに,昭和からのイメージがここだだけは全てが失われていた。
   当時,早月尾根に登る朝方,伊折バス停前の神社の石階段を陣取り,茅葺屋根の上に乗る剱岳を見上げ,バスを待っていたことを想いだす。
   学内闘争で合宿が全て中止にされ,現役の参加希望が多く,池ノ谷を早月尾根に変更し長次郎谷を下っていた。


     翌日明け方,加波君も合流, 大ブナグラ谷から猫又山を目指すも梅雨末期の天候不順は,その後の行程全てを狂わす事になった。
   林道終点からの取水堰堤右岸のルートはなくなっていた。対岸に渡り取水堰堤上にでる。吊橋は崩れ,簡易の橋が架けられている。

     本谷の上流が望め,ブラグラ谷を走る激流を足元に見る。
   急崚から落下する枝沢の小ブラグラ沢,大ブラグラ沢は白波を立て,荒々しいまでの激流を本谷に落としていた。

     馬場島荘の管理人の話によるとブラグラ谷は荒れても清流を通し,常に大きな岩石は流されるも濁流になるのは稀らしい。
   見下ろす右岸の枝沢はうね落ちる激流に,枝沢とはいえ見るからに渡渉することはできなかった。谷ルートを諦め急遽,大猫山への尾根ルートに変更する。
   ダイレクトに登る尾根,このルートの往復は別の意味で体力と時間を費やすことになった。

     地形図に描かれた等圧線は1400mコブまでは急登を示しているが正に現実味を帯びてくる。
   喘ぐ登りが最初から続き,一時ジグザグに登るも,直ぐ痩せ尾根伝いになり,延々と樹林帯を北上する。
   足だけでなく手を支えに踏ん張る登りは途切れなく現れた。ただ先の藪が刈払われ,非常に助かっている。

     一汗掻き足元にブナグラ谷の異様な白さの激流を見下ろした。そして樹間絡みの枝越えから,今回初めて北方稜線のツメと長い早月尾根を見る。
   剱岳本峰は最後まで望むことができなかった。最初で最後の剱岳西面のおぼろに映る岳を望んでいた。

     急登から灌木帯に入り明るさが増すと草木の緑は鮮やかさを増す。ただ展望はない。乳白色に変わった霧粒が周りを包み込んでいる。
   鎖場を攀じる難場を越え,尾根筋の踏み跡は主に小ブナグラ沢よりを巻き,右手は樹林が切れ,傾斜も緩み,一つの山場を越えた。


     周りの明るさが更に増すと薄日でも真夏の陽射しと変わらなくなった。
   メンバーは茹だる暑さに,休めばまだ裸になるほど元気。痩せ尾根だが殆ど風の流れはなかった。時たま流れる谷風が恋しくなる。
   撫でるような風が心地よさを呼んでいた。そして又汗を掻き騙し騙しの登りが続く。

     残雪に埋まる地塘が多く残された大猫平にでる。ツガの森は雪解けの茶色の地肌を現わしていた。
   黄葉のような下草の色合いは数日陽が射せば若葉溢れる草原に変わり,高山植物は華麗な花を咲き競うだろう。

     薄日が射し雪面は煌めき,蒸す暑さ。急登を終えた体は汗雫を垂らし続けている。予報通り,陽射しが漏れる雨模様が続いていた。
   特にこの数日は日本海側各地で局地的ゲリラ豪雨が乱発し,記録的短時間大雨情報が気象庁から発表されていた。

     目指す頭上に東芦見山稜が初めて望まれる。ガスに見え隠れする大猫山から連なる猫又山はガスの中だった。
   大猫平にでたのが9時20分,大猫山までは1時間だがそこから先の猫又山へは往復に4時間費やす。

     上手くピストンしても下山は楽に日没を迎える。一時の明るさも,ガスの広がりが更に増してきた。
   踏む記録だけの頂を考える。遥々東京から出向いている。天気が崩れるのは間違いなかった。

    大猫山
     丁度1時間で何も見えぬ大猫山の頂に立った。展望の失われ頂は打って変わりガスだけが徘徊していた。
   待望の日本海は見えず,湿った灰色の世界だけが広がっている。
   昨夜作った白米掬びにサンマの煮付け缶詰を空ける。口の中がパサパサし,食べずらく水で流し込む。

     その時,雨粒が1つ,2つ落ち,雨になった。本来ならこれから稜線満歩が待っている筈だった。もう猫又山は諦めている。
   そして空を仰ぐ。夏の匂いを含んだガスが岳を覆っていた。やや暗い灰色一色の空。その中,紫煙が白糸を作り昇るのを見る。
   この時点から気侭な雨が降り続くようなった。

     ガスが飛ばされていれば左前方から剱岳,立山,浄土岳,大日岳,小さく薬師岳,奥大日岳の雄峰が綺麗に連なり望める筈だった。
   1つ,1つの岳を見詰めることができたなら,その時々の岳々の想いが回想として,湧き上ってきただろう。
   過って剱岳東面は真砂沢をベースに一週間登っていた。昨年の夏には浄土岳から薬師岳へ立山連峰を南下している。


     雨は止んでは降り始め,下りでも暑さは変わらなかった。雨が降りだし,雨具を着れば雨が止み,脱ぐことを繰り返す。
   そして大猫平に戻り,樹林帯に入ると本降りになった。

     背遠方から受けていた雷鳴は何時の間にか前方から剱本峰側の雷鳴に変わり,頭上に落ちてきた。
   雨はもう留まることにく落ちている。そして土砂降りの雨に変わった。
   巨樹の雨宿りも利かなくなり,肩より上に手を構えれば雨粒の塊が袖から一直線に腕伝いに腹股へ流れてくる。

     カッパの下も濡れ始めてきうたようだ。休むことなく下るのみ。カメラを持ちだす余裕もなくなっていた。
   防水カメラを購入,初めての山行だがズボンのポケットから出すこと自体が不可能だった。
   尾根の末端,巨木林帯に入り,最後の巨樹立山杉も雨宿り処か,目に焼き付けるのが精一杯になる。

     まだ見えぬ谷間から濁流の轟音が聞こえだすと朝方の登山口にでた。
   濃いチョコレート色に変わった濁流がブラグラ谷を躍り波立たせている。大石を動かす鈍い音が耳に付く。
   ブナグラ谷,白萩川と渡る橋上からは怒号に変わった鉄砲水に軋む轟音が絡み,悪絶な荒れ狂う波を足元に見て,ぞっとさせられた。

     そして15時,ベースキャンプに戻る。雨を覚悟して確り設営した積りの天幕も,この雨の激しさに勝ることはなかった。山荘に飛び込む。
   幸い残っていた鈴木が山荘に移る準備をしてくれていた。そしてテント内のシュラフ類は濡れぬ所へ移動してくれている。
   我々はビショビショの体で直ぐ乾燥室に直行し,風呂に飛び込んだ。


     朝方まで弱い雨が降り続いた。外に置かれた天幕類,炊事道具類は全て濡れている。今日は日曜日,早月尾根に登るハイカーはすこぶる多かった。
   中腹の山小屋に泊る者もいれば早立ちしピストンする者もいる。猫又山へ登る人がいたとしても私達と同様に諦めざる得ないだろう。

     ゆっくり朝食を済ませ,最後に一昨日滑川のスーパーで仕入れた西瓜を呆張り,山を下りた。
   早月川の林道から山肌に真新しいガレ場を幾つも見る。又本流の濁流の色は治まるも,まだ轟音を撒き散らす岩混ざりの激流が落ちていた。


     「山と渓谷」9月号に大猫山から撮影した剱岳西面の山容が開きページで大きく載せられていた。そのコピーが暫くして滝さんから送られてきた。
   大窓に小窓,三ノ窓に続く剱西面の尾根と谷が屏風の岩壁になぞられ,深く食い込む谷間は溝化させ,望む剱が君臨している。
   異様な雰囲気を持つ厳剛たる岳だった。今は遠いい岳になっている。真夏の池ノ谷でもよい。もう一度訪れるチャンスがあるだろうか?

     北陸,東北は梅雨末期, 7月27日は沿岸州付近の寒冷渦,前線の通過に伴い,東日本から北日本に急速に対流雲が発達。新潟室谷77.0o
   対流雲の動きが遅いため,関東や東北で記録的短時間大雨情報が発表された。隅田川花火大会は雷雨のため開始30分で中止,
   又気象庁は9月01日から「特別警報」の運用を開始すると発表した。

   L松村(s43卒),m見城(s41卒),滝島(s42卒),鈴木(s43卒),加波(s53卒) 2013年07月26〜28日,松村記


   2013年07月26〜28日,馬場島bcから大猫山直登ピストン
   部報「峠」19号





      山登り考査



     私の高校時代は第2次登山ブームに乗り,国鉄,私鉄の各会社は週末,日曜日になると「 〜号」と山名の付いた臨時列車を増便させていた。
   又スキー夜行列車も臨時の臨時がでる時代だった。初めての山行は同級生と奥武蔵,伊豆ケ岳を企画し登っている。
   その後は「 〜号」に乗り,点々と単独で,又友と塔ケ岳,御坂黒岳,大菩薩,谷川岳と山名の知る山々に出向くようなった。

     立大,RHCに入部してからは山生活を学び,アルプスを中心に東日本各地の山々に入るようなった。
   部員からサブ,リーダーを務め,執行部に席を置き,都会に居るより山の生活の方が多くなる。
   色々なトラブルに何度となく出偶している。その都度乗り越え30年台初めまで,山を趣にして愉しんできた。


     その後は仕事が忙しく,子供と歩むのみになる。1986年には1年半を掛け,自宅御徒町から日光白根山まで繋ぐ街道,山道を歩んでいる。
   8年前,還暦を真近に控え,立教学院清掃ボランテァ登山に誘われ,再び山を登り始め,登山靴も新調するようなった。
   何十年振りの八ケ岳,行者小屋までが大変だった。バテにバテて赤岳の頂を清掃し,県界尾根を越え清泉寮に戻っている。

     誘われての山が多かったが還暦を迎え職を辞して,自らも歩みだしている。東京近郊の山々は殆ど歩んだことがなかった。
   奥多摩川苔山に出向く。個人的では再び歩みだした初めての山行だった。

     知識のない甘えが高尾山と同等と考え,川苔山の頂に売店があると思い,地図も持参していなかった。
   奥多摩三山を教わるほど奥多摩に対し知識は持っていなかった。次の山行から山道具を屋根裏から掘り出し,下準備を始めている。
   
     又ヒマラヤトレーニングをしているT先輩に笹尾根(高尾山〜陣馬山)を勧められ,三頭山へ繋ぐ登りから昔の奥利根の藪山を想い出し,
   目標を定めるようなった。東丹沢の経路,作業道を歩むシーズンが始まる。
     更に大山北尾根から送電線巡視路の歩きを学び,奥多摩から秩父へ鉄塔尾根を幾つも越えるようなる。
   冬季は巡視路,作業道をアプローチとして,低山の藪山を求め出掛けている。    
       
     今は再び一人,山に入るようなり6年になる。長期の山行はOBの仲間と山を共にするようになった。又幼馴染のNとは節目での山登りが続いている。
   高校卒業で仙丈ケ岳,北岳に入り,大学卒業では爺ケ岳に雪洞を掘り,酔泥山行になっている。
   社会人になってからは荒天で缶詰になった屏風岩。還暦では富士撮影山行をしたいと暮れの三ッ峠山に入っている。
   
     春雪が降れば慌てて雲取山に出向き,又石尾根に入り,御前山ではラッセルして戯れている。
   昨年は見向きもなかった表道志で新雪を見ている。それが切っ掛けになり,今年の春先は道志山塊に何度が出掛けていた。
   今年は漸く日原方面にも入るようなった。メーンはまだ中央東線から直接入れる大菩薩連嶺が続いている。
   
     聞くところによると来年6月には奥秩父大弛峠に路線バスが通うらしい。奥秩父が近くなる。長い藪尾根が幾つもある。
   もう暫くは山行を続けることになろう。後何年,磁石を持ち歩めるだろうか?

                                                                 2013年12月31日,竹町で





      長野中条の新津先輩の終の棲家の古民家で囲炉裏を囲む会・・始終後立山を望む



     「春風の心地よい季節になりましたが皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。昨年のRHC55周年のおり,中条の新津君の古民家で
   一杯やる会を提案してから大分日が経ってしまいましたが,この計画に賛同して下さって感謝致します。」と
   ファックスと改めて4月下旬に,富山先輩から手紙が頂いた。

     記念行事のをり誘いを受け,久しく楽しみにしていた私。
   誘われた最初のパンフレットの表紙には白沢峠,隧道を抜けると飛び出す形で鹿島槍に五龍岳が現れ,雪被る山稜が広く展望されていた。
   迫力満点の風景は又裾を若葉で満たしている。そこに信州中条と記されていた。この残雪多い時期に誘って頂いたのも嬉しかった。

     緑と伝説の里,中条は長野市の西に位置し,自然豊かで起伏の多く,遠望すると箱庭のような美しい地区。この北側に聳えるのが虫食山1376.0m,
   360度の展望が得られ,伝説と棚田を持つ魅力から信州百名山の1つに数えられている。
   そこに建つ古民家の新津邸で,5月の中旬に10人の仲間達が宿り,集う会が催された。


     過ってアラスカ遠征した3人組が揃う。焼津の富山さんを頭に,今回は音頭を取って頂いている。郡上八幡からは中山さんが共に夫婦で参加した。
   お邪魔した主の新津さんは私がRHCに入部した時の最上学年。当時は近隣のカッパ橋に住み,共に岳へ,岳ドライブに誘って頂いた先輩だった。

     又小金井からは青木さん。新人養成の折,初めて声を掛けてくれたOBで,強い印象をもっている。その時の主将が目黒から参加した田中さん。
   田中さんの同期で,八ケ岳の山岳ガイドで活躍していた池田さんは茅野から駆けつけた。そして最年少の私,68歳が集う。

     食堂で酒宴が催された。贅沢な海の幸と山の幸が膳に並び,酒もよく呑んだ。
   途切れぬ会話に酒も進み,年齢に係らず知らずしてグイグイ呑んでいた。

     女性群と交るわうのも久し振り,自然と溶け込む会話は尽きることなく,夜が更けまで弾んでいた。
   宴後の囲炉裏を囲み一服と,カメラを向けると撮る度に,笑い顔と真面目な顔が交互に並んでいた。


     翌日は全員で奥裾花自然園から白沢峠を越え,新津さんに選んで頂いた大町温泉郷「ときしらずの宿,織花」,に宿っている。
   道中,又新津邸の庭先からも始終,何処からでも残雪豊富な後立山の展望を仰ぎ,青春の時代に慕ってもいた。
   私は昨年の夏,昔歩んだコースに従い,唐松岳から爺ケ岳の山稜を綴っている。その岳々も雄大に又尊厳に山の扉を開き望まれていた。


     翌朝は青木さん,池田さんは朝方早めに宿を発ち,東京組は予想に反し,私一人時間をもてあそぶことになった。
   結果的には新津さん夫婦に千国街道沿いの安曇沓掛駅まで送って頂き,高瀬川左岸から展望を楽しみながら里道を歩み,帰京した。

     新津さん夫婦には言葉で表せぬほどの懐かしさ与えて下さった。又先頭に立ち,私達の気持ちを組み,招いて頂いた富山さんには感謝に堪えない。
   愉しかった仲間達,私は良き先輩を何人も持っている。初めて経験する旅だった。会えば「お〜!」「お久し振り!」,その言葉だけで昔に戻っていた。
   大分離れていた先輩達との会話,その仲間意識を心の中に新たに顧みていた。



     写真ができ送らして頂きました。その返事が失礼ながら大変に嬉しい言葉が綴られ,記念のため,無断で載せて頂きました。ご了承ください。

    富山先輩より
     「過日の新津君の古民家での集いに参加下さった事に心から感謝致します。
   5月の残雪の後立山連峰の素晴らしい眺望をかっての仲間たちと共有できた事は私ども夫婦そろって感激しております。
   久しぶりの美酒に一番先に酔ってしまいて集いの進行が上手くいかなかったこと,深謝致します。
   貴男にはこの計画を始めてから御支援いただき,かつ細かく連絡をお願いして,もし訳ありませんでした。これからも体をご自愛ください。」


    青木先輩より
     「楽しい写真を有難う。どのカットも忘れ難いものばかり。私は卒業以来50年。ビジネス戦線で奮戦したつもりだが昔の仲間達には本当に癒されます。
   皆齢いを重ねたが話せば瞬間に立教時代に還ります。新津邸での集い。人も時間も,そして酒肴,どれも素晴らしかった。また会いましょう。お元気で。」
   奥裾花自然園で購入した「オオヤマザクラ」の絵葉書で送っていただきました。


    田中先輩より
     「本当に青春時代に戻って楽しい時間を過ごせて良かったですね! 当方も注意していましたがやはり酒が過ぎてしまいました。
   「白馬」は其の日に登ってみましたがゴンドラ,リフトは一基を残し点検のため休止。それでも残雪を「黒菱」まで登り,正面に雪形を見ながらノンビリ
   日向ぼっこが出来ました。・・・いずれにしても中身の濃い充実した週を過ごすことが出来ました。また折を見てお会いしましょう!」


    池田先輩より
     「前略, この度はお疲れさまでした。「時を越える少女」ならぬ,「時を越えた爺様」の再会。
   それぞれその人なりの人生も垣間見られ,感慨深いものが有りました。それでは又お会いする日までお元気で・・」


     その後新津さん夫婦から庭から撮った鹿島槍,五龍の葉書を頂いている。
   「・・・移住して丸五年,皆様の来訪はとても楽しく嬉しかったです。年中無休で山(が見える)小屋は開いていますので,何時でもいらして下さい。
   週末よりいよいよ田植えです。」とある。こちらこそ,大勢で押し掛け,丁寧な言葉に感謝しています。・・・05,28,


     2015年05月13〜15日, 富山夫婦,青木,新津夫婦,中山夫婦,田中,池田,松村





       「天城山 山行記から」



     「2015年10月3日」RHC OB・OG会3大イベントの1つのハイキングの日。今回は天城山。早朝始発の乗るべく5時前に我が家を出発し,
   本隊には伊東で合流した。バスに1時間揺られて登山口へ。空は文句なしの晴天。目の前には真っ黒な富士山がドーン! 「富士山には雪がなくなっちゃね。
   いや雪のない時季はほんの少しだから貴重だよ」などと云いながら出発。あまり急でもなく,あまりスピードも早くなく快適な山旅だが,残念なことに展望がない。

     それでも「久しぶりに大人数人で歩くのは何となくウキウキしてしまうなあ」と思いながら歩いているうちに休憩。ちょっと道からそれた所に行くと
   何とまあ絶景ポイントが・・・。足場は悪かったが青空と青い海,大島はそれこそ手の届きそうな所にデンと構え,新島,利島,神津島・・・
   伊豆七島が指呼の間に見渡すことができた。幸福いっぱいだったが,この山行の幸福のピークはここだったかも知れない。

     万二郎,万三郎とピークとは言えないピークを通り下山。下山も急ではないが,根が張った道でちょっと歩きにくく快適とは言いにくい。
   それに山肌を巻く道で,似たような道を繰り返し歩き感じがした。午後2時を過ぎる頃だろうか。首脳陣が集まり会議!?
   そこでの決定はパーティを二分し3時15分のバスに乗り合わせるということ。先頭は足長おじさんの中川さんで二番手は私。
   
     中川さんは後ろをチラチラ見ながら微妙に追いつけないスピードで歩く。「3:15」は私の歩きにかかっている! それからはもう必死で歩く。
   とりあえず登りでないので息切れはない。ただただ走る気分で歩く歩く。気持ちは45年前の合宿・・・2時45分二股に到着。やっとだ!

     ここからは15分もあれば着くはずだ。「もう大丈夫ね」と3番手を歩く児玉君に救いを求めるよう言った私に返ってきた言葉は「いやあ! 分かりませんよ。
   まだ何かあるかもしれませんし・・・」「この鬼め!」と心の中で言いつつ歩いた!
   バス停到着3時2分前。ヤッター!! 後らから続いたメンバーもちょっとお疲れ気味の様子。「みんないい年を取っているね」と思った天城山ハイクでした。

                                                                    s48年度卒 青山裕子

     2015年10月03〜04日,親睦ハイキング,伊豆天城山(万次郎岳,万三郎岳)・・伊東温泉「ホテルラヴィェ川良」





       角間山スノーシュトレッキング



     北陸に住む私は「ビックリポン」の暖冬で,今回のOB会スノーシュトレキングに少しばかり高めの気温の中で,先輩方に交り行ってきました。
   前日の12日に滝島,鈴木,松村の三先輩に軽井沢駅まで迎えにきていただきました。
   見城前会長と一緒にスキーをする鈴木先輩と途中で別れ滝島,松村両先輩に私の3名で桟敷山(1931m)に登ってきました。

     13日は松村,立松両先輩に私の3名で角間山に出かけたのであります。雪は緩んできていましたがスノーシュで快適に距離と高度を稼いでいきます。
   ポイントごとに,立松先輩からの動物の足跡やら植物などに耳を傾け,出来の悪い私でもそのときだけは教養人になった気がしました。

     角間峠からは急登といなり,稜線に出れば一層強風が吹いていて,おまけに1981mの頂上に立つ頃には霙もぱらつきだしました。
   それでも前日登った桟敷山や湯の丸山,さらにうっすらと上信越の山々が望め,見慣れている富山の山とは随分違うものだと,新鮮な気分になったものです。

     名残りを惜しみつつ頂上を後にし,途中昼食を摂ったりして下山しました。ふだんは一人で地元の山をスノーシュやかんじきで歩き回っていますが,
   こうして先輩方と学生時代とは違った気分でワイワイいいながらあるくのもと,ても楽しいものでした。

                                                                    s53年度卒,加波 至
     2016年02月12〜14日,鹿沢温泉スキー&トレッキング,参加20名




      ナンダ・コート再登頂に挑む・・立教山岳部



     1936年10月5日,立教大学山岳部が日本の山岳隊として初めてインドヒマラヤの未踏峰ナンダ・コートに挑み,2度目のアタックで初登頂した。
   この偉業を後世に伝えるべく,80年目にして再登頂フロジェクトが立ち上がりました。しかしコンデションが整わず,山頂までの僅かな距離で断念しています。

     大蔵喜福氏を隊長に立教山岳部OB2名を含む5名と毎日新聞社撮影隊4名の計9人が,過って初登頂の際に埋められた立教校旗,毎日新聞社旗,
   日章旗を求め,1936年の初登頂と同じ日, 2017年10月5日の登頂を目指して遠征している。

     中印国境の軍事的緊張で希望した登山ルートが取れず,難ルートからのアタックと天候不順から濁流に行く手を阻まれ,山頂まで200mで断念した。
   行程は日本からベースキャンプ設営まで最短6日間で設立。比べると前回は60日間を費やしている。BCはピンダリー氷河舌端の快適な場所。

     前進基地4400mは100m上が氷河になる。C1,4900mまではセラックス帯やクレパス帯があるが比較的安定し,ピッケル・アンゼンで快適な登行ができた。
   C2,5400mへはクレパス帯を縫うよう急雪壁に取り付き,コルにでるとほぼ平らなカフニ大地の一番奥にC2を建設する。
   午後の太陽に晒されながら大雪原を歩くには暑く非常に体力を消耗する。

     ナンダ・コート南面は三段の台地で構成され,二段目の台地上に設営したC3,5950mからセラック帯を抜け,三段目台地に出て頂上直下の大氷雪壁
   (傾斜55〜60度,500m)に取り付く。昨年は雪に付着が少なく,青氷がでていた。
   イギリス隊の記録に「適当な降雪と低温で雪が締まっていることが成功の条件」とある。

     ルート工作ではシェルパが「アイスハーケンが粗悪で氷に入っていかない。支点が取れない。」と言いだす。アイスハーケンは現地のクライミングエージェントが用意。
   インド製でこの先フェックスロープを使わず登行継続も検討しましたが安全性が著しく低下し,登頂を断念する。頂まで僅か200mでした。


     2017年10月・・セントポール・立教大学公友会2018,02,442



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