秋葉街道と伊那街道,金沢街道



     秋葉街道

        赤石山脈と伊那山地とに挟まれた中央構造線の街道

                                             1950年代初, 高遠と美和湖桜祭り
                                             1950年代初, 伊那北とスキー
                                             1963年10月, 富士見⇔マナスル山荘h―入笠山
                                             1964年07月, 伊那北より戸台入山,千丈,北岳
                                             1966年10月, 聖岳より梨元下山,和田経由飯田線平岡へ
                                             1966年07月, 塩見岳より鹿鹿下山,伊那山脈を横断し伊那大島へ
                                             1967年08月, 伊那北=杖突峠=小淵沢
                                             1968年03月, 伊那市より戸台入山,鋸岳
                                             1968年05月, 伊那市より戸台入山,千丈,甲斐駒岳
                                             1973年11月, 伊那山脈を越え飯田より分坑峠より平岡経由佐久間湖へ
                                             2001年07月, 杖突峠南下,上村より三遠南信自動車道の矢筈隧道で飯田へ


中央本線,飯田線   諏訪湖          ,
 
天竜川                                ,




    杖突街道,茅野〜高遠へ
      杖突峠(上川←峠→藤沢川,三峰川)

2001年07月, 秋葉街道を南下U,原村より杖突峠から飯田駒場へ


1963年(s38年)10月,富士見⇔入笠山







1964年(s39年)07月, 梅雨の千丈〜北岳,伊那北より戸台入山
1968年(s43年)03月, 底雪崩と鋸岳,伊那市より戸台入山
1968年05月, 春の千丈,駒ヶ岳,伊那市より戸台入山,火傷で引率下山,伊那北へ


     現在の分坑峠ウォッ地図,(三峰川,栗坂川←峠→鹿塩川,小渋川)



1973年(s48年)11月, 秋葉街道南下T,伊那山脈を越え分坑峠より佐久間湖へ



1966年(s41年)07月, 塩見岳より鹿塩下山,伊那山脈を横断し伊那大島へ
     
35年振りの鹿塩






      現在の地蔵峠ウォッ地図,(小渋川,青木川←峠→上村川,遠山川)


2001年07月,阿智,駒場への旅
      上村より三遠南信自動車道の矢筈トンネルで飯田へ横断






1966年(s41年)10月, 聖岳より梨元下山,和田経由で飯田線平岡へ横断
      遠山川軌道,

1973年(s48年)11月,秋葉街道南下, 和田より平岡ダム経由,天竜川沿いに佐久間湖へ
      (遠山川→平岡,天竜川)


      峠と谷

   南アルプス赤石山脈の西側,その前山の伊那山脈との間に,ほぼ南北に走る中央構造線の谷がある。
     赤石山脈の水を集めて流れる川は西に走り,前山の伊那山脈を横谷となって横ぎり,西の天竜川に注ぐ。

   この梨棚状の渓谷は南は水窪川(みさくぼ)に沿う水窪の地。その北は遠山川に沿う遠山。更に北は小渋川に沿う大河原・鹿塩の地。
     ついで三峰川に沿う入野谷・藤沢の地で,諏訪盆地になる。

   そこには幾つかの峠がある。水窪と遠山の間の青崩峠,遠山と大河原をつなぐ地蔵峠,鹿塩と入野谷の間の分杭峠(ぶんぐい),
     藤原と諏訪盆地を結ぶ枝突峠がそれである。
     ・・・甲府盆地を中心としたフォッサ・マグナ概念図




      伊那街道

   木曽山脈の大きな山波を隔て,二つの大きな河川が太平洋に南下している。木曽川と天竜川である。
     それぞれの河沿いには中山道と伊那街道が綴られ,伊那街道の東側には更に伊那山脈を隔てて秋葉街道が,
     奥山の綴られた沢沿いを平行するが如く貫いている。

   伊那街道は明るい伊那谷を南北に貫き,中山道の塩尻から南下し辰野,伊那,駒ヶ根を経て飯田に至っている。
     豊田,岡崎など三州方面へ向かう木曽川沿いの中山道の脇往還的な役割を果たしていた。
     幕府の作った宿駅制度の中山道に対し伊那街道は公的宿駅はなく,私的旅人の往来が多い街道であった。

   伊那街道という名も三州方面からの見た呼び方で,信州の人々らは三州街道と言わされている。
     又物質を馬の背で運ぶ「中馬」が繁盛したところから中馬街道の別名もあった。

   辰野から伊那街道を南下し伊那北入船にでると右に折れれば権兵衛街道へ。
     左へ回れば金沢街道(枝突街道)と隣りの街道へと繋がる分岐になる。前者は木曽山脈を越え,木曽中山道へ。
     後者は高遠を経て甲州街道の金沢(現在の茅野市内)へ至っている。

   元禄4年(1691年)内藤氏が高遠藩主になって以来,伊那は宿場町となり交通の要所として大いに賑わいをみせていた。
     少し昔,私の母の実家は伊那北だった。私の記憶では1950年代後半,まだ甲州街道を通う列車は蒸気機関車だった。
     長く楽しい道中だった事を覚えている。私が小学校に入るか入る前の頃だったと思う。

   田舎は水田と桑畑が多い,素朴で明るい伊那谷地区にあり,門前の村道沿いの小川ははフナが住み着き,そこを越えると広い稲穂が広がっていた。
     その先に大きな天竜川の流れがある。
     1968年10月,中秋の伊那谷 同年04月,途中下山 69年11月,秋の伊那谷




      金沢街道

   高遠で欄間などの彫刻を仕事としていた親戚にも暫し通っていた。隣りは醤油屋で高遠神社の参道前にあった。
     家前からは川沿いにへばり付くバス停が見え,南アルプスに入る登山者を暫し見ていた。

   何が気になったのかは定かではないが繊細に記憶に残っている。昔は伊那北からの国鉄バスは高遠で乗り換えていた。
     夏には肩幅を越えた大きなキスリングを背負う社会人,大学生と,大人達がいた。

   それを見習う姿が自分に移り,私が高三の時にはその1人になっていた。山小屋では高校生と言う事で何処でも驚き可愛がって頂いた時代である。
     その後も通い,年老いた今でも歩き始めている。高遠の桜見や美和湖は親や叔母に連れられ,幼い頃通った場所だった。
     10代の初めには知っていた伊那と高遠,戸台へ入れば山となる。この言葉はたぶん自分から尋ね,耳に留まっていた言葉だと思う。

   その後金沢街道には子供達と,又妻とも通っていた。秋葉街道は学生時代,そこを繋ぐよう,山の折々に点々と踏み跡を残している。
     卒業後は中部から南部へ。妻とは北端より中部へ秋葉街道を辿っている。

   古代から見ると浅すぎる想いだが自分の人生のひと刻みを,これらの街道に踏み入れた事で,自分の時代の成長をも見詰めてきた街道である。
     哀愁溢れる街道に昔を偲び,触れ合う人々の素朴さが今でも私の心を安らげさせている。





    甲斐駒ケ岳の起源,由来

     甲斐駒ケ岳とは甲斐にある駒ケ岳という意味で,信州側で別名で呼ばれていた。甲斐とは山と山の間を指す。古代の率律令制で甲斐は四郡に分かれ,
   その1つが巨摩群(コマ)だった。甲斐國志によればこの地は古くから馬と関係があり,馬へも信仰があったことがうかがえる。

     この山麓には御牧と呼ばれた馬の産地があり,古くから中央政府に馬を献上していた。
   そして山頂に駒形権現を祀り,他の山にそれを求めなかったただ1つの理由は,この山の形が馬に似ていたからだろう。

     他面,元世紀では甲斐に高麗からの渡来人が馬の技術者として居たことがあり,1ケ所に集めたと記されている。
   その租神を付近の高い山に祀たことが命名の1つの理由とも考えられる。
   もともと駒(コマ)とは古代朝鮮語からきたもので,それが高麗(コマ)と同じ読み方であることから解明を著しく複雑なものにしている。


     伊那谷では木曽駒ケ岳を西駒と呼び,これに対して甲斐駒ケ岳を東駒と呼んでいるが,古くは白崩岳あるいは白崩山と呼んだ。
   江戸後期に書かれた「伊那志略」及び「南信伊那史料」に白崩岳の供述があり,末期に作られた「木師御林山絵図」にも白崩岳と書かれている。
   本峰直下の花崗岩のガレが遠くからも白く見られるからである。

     白崩岳と甲斐駒ケ岳が同一の山かどうか明治後期の岳界で論争が起きた。「日本山嶽志」にある白崩岳の図は千丈岳と云われている。
   これは千丈岳の肩に見えた黒い岳と勘違いして,印されてしまったと云われている。

     伊那側では山頂に白崩権現を祀り,一時期信仰登山が盛んになったが交通不便の為まもなくすたれてしまっている。
   白崩岳とは高遠から伊那にかけて狭い範囲で使用されていたようである。
                                                                 「G 山想」二〇一五年巻く第10号より





    白根と白峰

     小文書を見ると古くは白根だった。ここでみる白根とは甲斐から白く見える高山の総称であり,特定の頂ではなく,「平家物語」のよく引き合いにでる
   「北にとうざかりて雪白き山あり・・ 甲斐の白根とぞ申しける」。これは元来琵琶の弾き語りの草稿からきたもので,単に北の高山を指している。

     「甲斐國志」では現在の北岳を白峯と呼んでいる。これが明治の岳人の共感呼び,現代に至るまで白根は少なく,白峰(峯)が主流になった。
   また最北の峯が北岳と呼ばれるようなると三山の総称にも使われるようなった。しかし,単に白峰ではピーク名とも三山ともとれる。

     例えば最近まで使われていた白峰南稜は広河原岳から南の尾根を指すものか,北岳南のピーク・中白根から南なのか判然としない。
   そこで三山の南の山稜名に白根を採用して位置をはっきりさせたものだろう。また山名を(古い時代に帰そう」という1つの流れがあることは見逃せない。
   丹沢・塔ケ岳が古い名称の塔ノ岳に変化したのがそのよい例である。
                                                                 「G 山想」二〇一五年巻く第10号より